李淵
李 淵(り えん)とは、唐の初代皇帝。字は叔徳(しゅくとく)。廟号は高祖(こうそ)。最終的な諡号は神堯大聖大光孝皇帝(しんぎょうだいせいだいこうこうこうてい)。
生涯[編集]
唐の皇帝へ[編集]
566年4月7日に生まれる。父は北周の有力な軍人李昞で、母は独孤信の四女。楊堅(隋の文帝)の正妻独孤皇后は叔母にあたる。史書では李淵は道教の創始者老子の末裔とされているが当然嘘であり、実際は北辺の騎馬遊牧民鮮卑にルーツを持つものと思われる。581年に文帝が隋を建国すると皇后の親戚だったこともあり重用され、唐国公に封ぜられた。604年、文帝が崩御するとその次男で李淵の従兄弟にあたる煬帝が即位した。煬帝の治世下で各地の軍司令官や近衛隊隊長といった重職を歴任し、613年の第三次高句麗遠征中に皇族の楊玄感が反乱を起こすとこれの鎮圧に貢献した。しかし、この楊玄感の乱に端を発して各地で煬帝の暴政に耐えかねた群雄が蜂起し、中華は大混乱状態に陥った。李淵は隋の宮女に手を出してしまったことで[注 1]進退極まり、次男李世民らの説得を受け617年6月に挙兵した。李淵の軍は隋軍に勝利を重ね、11月に首都大興城(長安)を陥落させた。李淵は江南に逃げていた煬帝の廃位を宣言し、彼の孫の楊侑(恭帝)を擁立した。618年5月に煬帝が家臣に弑されると恭帝から禅譲を受け、唐を建国した。
即位後[編集]
唐軍は各地の群雄を次々と放逐し、620年代半ばまでに中華をほぼ統一した。しかし、この頃から長男で皇太子の李建成と次男で軍功のある李世民の間で皇位継承を巡る対立が激化し、朝廷を二分するまでになった。626年6月、玄武門の変で李建成派が一掃され、李世民は勢いそのまま李淵に譲位を迫った。李淵はこれに応じて退位し、太上皇となって隠居生活を送った。635年6月25日に崩御。享年71。なお、李淵は在位中に廃仏の詔を発していたが、玄武門の変の混乱で有耶無耶となり最終的に実行されなかった。
注釈[編集]
- ↑ 李世民が父を裏切らせるために仕組んだとされる。
関連項目[編集]