溥儀

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溥儀(ふぎ)とは、の12代目皇帝及び満州国の執政→皇帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)。

ラストエンペラー[編集]

1906年2月7日光緒帝の弟・醇親王の子として生まれる。1908年、幽閉中の光緒帝が崩御したことで、まだ2歳の溥儀が西太后の指名により宣統帝(せんとうてい)として即位した。なお、即位式の際、ぐずる溥儀を見かねた父が「すぐに(式典は)終わるからね」と諫めたところ、実際に溥儀の治世はすぐに終わりを迎えてしまった、というエピソードがある。醇親王は憲法大綱の制定や中国初の議会の招集、内閣の組織によって清の延命を図ったが、もはや民衆の望みは満州族の支配からの脱却のみにあった。1911年四川省での鉄道国有化反対デモをきっかけに辛亥革命が勃発した。清朝の重臣袁世凱孫文率いる革命軍と戦うのはもはや不可能として宣統帝の退位を迫り、1912年2月12日に溥儀は皇帝の位を退いた。こうして始皇帝以来2000年にわたって続いてきた中国の帝制は終焉を迎えた。

混迷極まる中国[編集]

溥儀退位後の中国は袁世凱の独裁や各地の軍閥の自立により混乱状態に陥っていた。1917年には清の旧臣である張勲が清朝復活を画策し、宣統帝が一時的に復辟する事件も発生した。ただ、帝政が廃止されたとはいえ中華民国政府は皇族の生活を保障しており、溥儀は紫禁城内でこれまでとほぼ変わらない生活を送っていたという。やがて溥儀は西洋思想と英語の教育を受けることとなり、イギリス人講師のレジナルド・ジョンストンから多大な影響を受けたという。しかし1924年軍閥同士の争いに巻き込まれる形で溥儀らは紫禁城から強制退去させられることとなった。困窮した溥儀はイギリスオランダに庇護を求めたが拒絶され、最終的に日本の天津疎開で暮らすこととなった。

満州国皇帝[編集]

1931年9月18日関東軍の暴走により満州事変が勃発。日本軍はたった5ヶ月間で張学良の中国軍を駆逐し、満州全域を支配下に置いた。日本軍は満州に親日的独立国家を樹立するにあたり、国際世論の批判をかわすため清朝の復辟の体裁を取る形で溥儀を元首とする満州族の国家の建国を画策した。乾隆帝の陵墓が暴かれたことで中華民国政府に不信感を抱いていた溥儀はこれを快諾し、1932年2月18日満洲国に建国が宣言され、溥儀は執政に就任した。さらに1934年3月1日には康徳帝として満州の皇帝に即位するが、実験は関東軍が握っており溥儀は傀儡に過ぎなかった。1937年4月3日、明治天皇の親戚にあたる嵯峨浩と結婚した

戦後[編集]

1945年8月8日ソ連日ソ中立条約を一方的に破棄して満州国内への侵攻を開始。既にアメリカとの戦争で満身創痍の大日本帝国陸軍は為す術もなく敗退し、溥儀は日本への亡命を試みるが奉天でソ連軍に捕えられた。溥儀は極東国際軍事裁判(東京裁判)に証人として召喚され板垣征四郎らに関する証言を行ったのち、1950年中華人民共和国政府に身柄を引き渡された。溥儀は処刑を恐れたが殺されることはなく、中国共産党による市民教育と思想改造を受けることとなった。1959年12月4日に溥儀は模範囚として釈放され、以後は北京植物園の庭師として余生を過ごした。1967年10月17日プロレタリア文化大革命が吹き荒れる中で死去した。享年61。

関連項目[編集]