順治帝
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世祖順治帝(せいそじゅんちてい)とは、清の3代目皇帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、諱は福臨(ふりん)。
生涯[編集]
1638年3月15日、太宗ホンタイジの9男として生まれる。1643年に父が崩御すると、長男ホーゲとホンタイジの弟ドルゴンとの間で後継者争いが勃発し、和解案として僅か5歳のフリンが皇帝に推挙された。翌1644年、明側の武将呉三桂の裏切りによって山海関を突破、万里の長城を超えて中国への侵入を果たした。この時北京は李自成の反乱軍の手に落ちて崇禎帝は自殺しており、李自成軍と清軍は激戦を繰り広げたが最終的にドルゴン率いる清軍が勝利した。10月19日、満州に留まっていた順治帝は北京に入城し、以後約300年に渡って中国は満州族の支配下に置かれることとなった。
中華統一後、ドルゴンとホーゲの対立は激しさを増していた。順治帝は兄ホーゲを慕っていたが、それを不快に感じたドルゴンは1648年にホーゲを無実の謀反の罪で捕らえ獄死させた。順治帝はこの件でドルゴンを激しく憎むようになった。1650年にドルゴンが狩猟中に急死すると順治帝は彼の墓を暴いて死体を鞭打ちにし、ドルゴンが登用した官僚を処罰した。
翌1651年(順治8年)に13歳の順治帝は満を持して親政を開始した。順治帝は官僚組織の合理化を進め、明代に倣って宦官制度を復活させた。ただし、宦官は政治への介入を厳しく禁止されていたため、後漢末期や唐代のように宦官が権勢を振るうことはなかった。また、鄭成功ら明の残党の北伐を撃退した。ところが、順治帝は天然痘を患い1661年(順治18年)2月5日に崩御。享年23。
彼は清の歴代皇帝の中でも殊に早逝した人物となった。
后妃[編集]
順治帝には生涯で3人の妃がいた。
- 1人目はモンゴル出身のエルデニブンバ。美しい容姿の持ち主だったが気性が荒く、憎むドルゴンが選んだ妃だったため順治帝は彼女を愛することはなく、1653年に皇后の位を廃された。
- 2人目はまたもモンゴル出身のボルジギト。彼女は後の康煕帝を産んだが特段寵愛を受けることはなかった。
- 3人目はドンゴ。彼女は妃の中で最も寵愛を受けたが皇后の位には就かなかった。ドンゴは1660年に急死してしまい、順治帝は大いに悲しんだ。そのため、順治帝は崩御したのではなく出家してドンゴの霊を弔っているのではないかという噂が広がったという。
関連項目[編集]
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