道光帝
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宣宗道光帝(せんそうどうこうてい)とは、清の8代目皇帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、即位後の諱は旻寧(みんねい)。
1782年9月16日、嘉慶帝の次男として生まれる。武勇に優れ、天理教の乱の際には自ら反乱軍と戦い撃退に成功した。1820年、父の崩御によって皇帝に即位。この頃の清はイギリスのアヘン密輸によって大量の銀が国外に流出しており、農民から皇族まで幅広い層にアヘン中毒者を出す悲惨な状況となっていた。1636年、道光帝は林則徐を欽差大臣に任じアヘンの取り締まりを命じた。林則徐は大量のアヘンを押収し、焼き払って海に捨てた。しかし、これに激怒したイギリス政府は1840年、中国に艦隊を派遣し、アヘン戦争が勃発した。道光帝はイギリスの怒りを鎮めるために林則徐を罷免したが、これは逆効果だった。清側の弱腰を見たイギリス軍は攻勢を強め、鎖国の影響で時代遅れになっていた清の軍隊は手も足も出ず惨敗。1842年の南京条約によりアヘン密輸の黙認、香港島の割譲、寧波など5港の開港といった屈辱的な要求を飲まされた。1850年2月25日、道光帝は失意のうちに崩御した。享年67。四男が咸豊帝として後を継いだ。