劉裕
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武帝(ぶてい)とは、劉宋の初代皇帝。姓は劉(りゅう)、諱は裕(ゆう)。
生涯[編集]
前半生[編集]
363年4月16日、東晋の下級役人劉翹の長男として生まれる。『宋書』では漢室の血を引いているとされているが、敵対関係にあった北朝の『魏志』では父すら不明のわらじ売りだったと記されている。現在の江蘇省辺りで貧しいながらも耕作により生計を立てていた。399年に五斗米道の信者らが反乱を起こすと劉牢之率いる討伐軍に加わり、勇猛果敢な活躍と略奪を許さない軍紀で評判になった。劉裕は当時の東晋朝廷を牛耳っていた桓玄の目に留まった。劉牢之は桓玄の専横に反対して反乱を起こそうとするが、人望が無かったため頓挫し自殺。劉裕は桓玄の元に帰順した。403年、桓玄は東晋の安帝を廃し、自ら帝位について楚王朝を創始した。しかし、劉裕はこれを認めず妥当桓玄の兵を挙げ、建康を奪回し安帝を復位させた。追い詰められた桓玄は蜀で殺害された。
宋を開く[編集]
東晋の実権を握った劉裕はライバルや各地の反乱軍を次々と倒し、北伐を行い後秦の支配下にあった洛陽と長安を奪還した[1]。劉裕は419年に安帝を暗殺、弟の司馬徳文を恭帝として擁立した。そして420年6月、恭帝から禅譲を受け皇帝に即位(→武帝)。国号を宋と改めた。なお、劉姓の王朝は原則的に「漢」の国号を冠するのが慣わしとなっていたので、臣下の一人が「漢」を提案したが、武帝は貧民出身の自分に合わないとして「宋」を採用した。武帝は土断法を施行して江南の開発を進め、後に六朝文化が花開く基礎を固めた。422年6月26日に崩御。享年59。長男の劉義符が後を継いだ。