明帝 (北周)
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明帝(めいてい)とは、北周の2代目皇帝。姓は宇文(うぶん)、諱は毓(いく)。
534年、西魏の事実上の支配者宇文泰の長男として生まれる。学問を好み、寛大で明君の素質があった。557年に弟の宇文覚(孝閔帝)が禅譲を受け北周を建国すると柱国大将軍に任じられた。同年10月に孝閔帝が従兄宇文護と対立し廃位されると、宇文護は宇文毓に即位を要請。最初は固辞したが群臣達の説得に折れ、11月5日に北周の2代目皇帝となった。明帝が内政を担当し、宇文護が軍事を司る分担体制が採られ、戦乱や災害で貧窮する民の救済に努めた。しかし、宇文護は英明な従弟が自身の地位を脅かすことを恐れるようになり、排除を決意した。560年5月30日、明帝は宇文護に勧められた毒入り餅を食して崩御した。享年27。明帝は餅に毒が盛られていることを察知したが敢えて食したともされる。遺言により弟の宇文邕が後を継いだ。