同治帝
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穆宗同治帝(ぼくそうどうちてい)とは、清の10代目皇帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、諱は載淳(さいじゅん)。
1856年4月27日に生まれる。父は咸豊帝、母は中国三大悪女の1人西太后。1861年、咸豊帝の崩御により清の皇帝に即位したが、当時は僅か5歳だったため摂政として母や叔父が権力を握っていた。1864年、15年弱にも及んだ太平天国の乱が漢人の地方官僚李鴻章や曾国藩の活躍によってようやく終結した。この乱により軍民合わせて2000万人以上が死亡したとされている。乱鎮圧の功績で出世した李鴻章らは洋務運動と呼ばれる軍隊の西洋化政策を開始した。洋務運動は一定の成果を見せたものの、中体西用の原則のため本質的な改革には至らなかった。1875年1月12日に同治帝は崩御した。享年13。一説には娼婦に梅毒をうつされたとされる。従兄弟が光緒帝として後を継いだ。同治帝の治世において、一時的ではあるが波乱の中華に安定と平和がもたらされたため同治中興とも呼ばれる。