阿骨打
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阿骨打(あくだ、1068年8月1日 - 1123年9月19日)とは、金の初代皇帝。出身部族である完顔部の名を冠した完顔阿骨打(わんやんあくだ)とも呼ばれる。
生涯[編集]
現在のハルビン市付近で生まれる。完顔部族長の父・ウクナイは当時華北を支配していた遼の皇帝から節度使に封ぜられていた。完顔部は遼の支配下にありながら昔からの伝統的な女真の生活を維持している生女真の一族であった。阿骨打は弓の名手で高いカリスマ性があったという。ある時、宴会で遼の皇帝が彼に舞を踊るよう要求したが、阿骨打はこれを拒否した。
遼はモンゴル系騎馬遊牧民契丹が建国した国だったが、9世紀半ばには支配者層の漢化が進み、華美な宮廷費と北宋との戦争費を維持するために支配下の女真に重税を課すようになった。これに対し、1114年、阿骨打は全女真を統一して遼に対する反乱を起こした。緩みきっていた遼軍に対し猛安・謀克制により統率された女真軍は連戦連勝で、1115年には会寧を都として金の建国は宣言。阿骨打は大金皇帝の初代皇帝太祖となった。1116年までに遼の東半分を征服し、天祚帝と講和を結んだ。阿骨打の快進撃を知った北宋は金との同盟を提案し、1120年に海上の盟が結ばれた。
この同盟に基づき1121年に遼内への侵攻を再開、雲州を制圧した。また、北宋が耶律大石の守る燕京攻略に手こずっていたため急遽加勢し、同年中に攻め落として遼を崩壊させた。北宋はこの代償として毎年銀20万両・絹30万匹などの歳幣を金に送ることを約束したが実際には守られなかった。1123年、阿骨打は逃亡中の天祚帝を追う遠征の道中、晩年の鯨飲馬食が祟り現在の吉林省で病死した。後を息子の太宗(呉乞買)が継いだ。