玄宗 (唐)

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玄宗(げんそう)とは、大唐帝国の9代目皇帝である。本名は李隆基(りりゅうき)。治世前半は太宗李世民と並ぶ唐の名君と称されたが、後に暗君に転落した。

即位まで[編集]

唐の5代目皇帝睿宗の三男として685年9月8日に生まれた。なお、当時皇帝の座にあったのは祖母の武則天である。705年、病床の武則天はクーデターにより子で隆基の叔父・中宗に禅譲させられ、中宗が復位したが、彼の皇后である韋皇后と娘安楽公主は武則天に憧れて自らが皇帝になろうという野望を抱く。こうして710年に中宗は韋皇后らに毒殺されるが、これに反発した玄宗は兵を率いて宮廷に乗り込み、韋皇后と安楽公主を殺し、彼女が擁立した殤帝を廃して秩序を取り戻した。こうして睿宗が唐の8代目皇帝に復位するが、彼は僅か2年後の712年に隆基に譲位した。これにより27歳の隆基は唐の皇帝・玄宗となった。

開元の治[編集]

玄宗は武則天が取り立てた有能な家臣団に囲まれ、武韋の禍で混乱した政局の収拾に努め、節度使の設置や募兵制の採用などの改革も行なった。この結果、経済は安定し文化も興隆した。李白杜甫といった名だたる詩人が登場したのもこの頃である。こうした開元の治と呼ばれる玄宗の優れた統治により、大唐帝国は最盛期(いわゆる盛唐)を迎え、繁栄を謳歌することとなった。

堕落[編集]

しかし、寵愛していた妃の死や老化により玄宗は次第に政治への興味を失っていった。そんな玄宗を心配した家臣の高力士は、彼に楊貴妃を紹介した。楊貴妃の美しい歌声と華麗な容姿に玄宗のハートは忽ち射抜かれてしまい、彼女を寵愛するようになった。玄宗は一日中遊びに耽って朝廷の会議にも出なくなり、代わりに楊国忠を筆頭に楊貴妃の一族が専横を極めた。これに反発したのが同じく幻想の寵愛を受けていた突厥ソグド人のハーフである胡人武将安禄山である。両者の対立は日に日には激しくなり、とうとう中華を揺るがす大乱に繋がる。

安史の乱[編集]

755年、安禄山と部下の史思明は奸臣楊国忠討伐を名目に幽州で挙兵した。安史の乱の始まりである。はじめ玄宗は寵臣の安禄山が裏切るわけがないと反乱を信じず遊び耽っていたが、度重なる報告により遂に事の重大さを認識するに至った。

15万人にもなる反乱軍は破竹の勢いで進撃し、僅か1ヶ月で洛陽が陥落、安禄山は大燕帝国の成立を宣言した。翌756年には帝都長安にも燕軍が迫り、玄宗は楊国忠らと宮廷から逃げ出し、蜀の地へ落ち延びた。この途中の馬嵬で護衛の兵士たちが激怒し、乱の責任者として楊貴妃含む楊一族を殺害する事件も発生した。8月12日、失意の玄宗に呆れた息子の粛宗が勝手に即位し、約7年に渡って燕軍と死闘を繰り広げることとなった。上皇の玄宗は幽閉され、安史の乱鎮圧直前の762年に崩御した。享年76。

余談[編集]

源氏物語」の序盤では、朱雀帝が光源氏の母・桐壺の更衣を溺愛していることを玄宗に準える描写がある。

関連項目[編集]