弘治帝
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孝宗弘治帝(こうそうこうちてい)とは、明の10代目皇帝である。姓は朱(しゅ)、諱は祐樘(ゆうとう)。
生涯[編集]
1470年7月30日に生まれる。父は成化帝で、母は少数民族ミャオ族出身だった。成化帝の寵妃万貴妃は嫉妬深い性格で、他の妃女が妊娠すると密かに堕胎させていたが、弘治帝は事情を察知した宦官の手で密かに出産・養育させられ、万貴妃の魔の手を逃れることができた。これを知った万貴妃は弘治帝の暗殺を試みるが失敗し憤死。彼女を失った成化帝も生きる気力を失い1487年に崩御したため、唯一の男児である祐樘が弘治帝として即位した。弘治帝は祖父と父の代で弛緩しきった綱紀の粛正、賢臣の登用、税制改革などに成果を出した。しかし1505年6月8日、医者の薬の処方ミスで鼻血が止まらなくなり崩御した。享年34。唯一の息子厚㷖が後を継いだ。弘治帝は後世の歴史から明中興の祖と称された。
その他[編集]
即位した弘治帝は母の生家を探させたが、かつての反乱で皆殺しにされていたため結局見つからなかった。