光緒帝
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徳宗光緒帝(とくそうこうしょてい)とは、清の11代目皇帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、諱は載湉(さいてん)。
1871年8月14日に道光帝の孫として生まれる。1875年、従兄弟同治帝の早逝によって3歳で西太后らに擁立された。1880年代に入ると一時的に安定していた中国の対外情勢は再び悪化し始め、1885年に清仏戦争でベトナムへの影響力を喪失。イリ地方を巡ってロシア帝国と、朝鮮半島を巡って大日本帝国との対立が激化した。1894年、東午農民戦争を端として日清戦争が勃発。洋務運動の努力も虚しく清軍は敗戦を重ね、黄海沖海戦で自慢の北洋艦隊が壊滅した。1895年の下関条約により清は台湾を割譲し、朝鮮の支配権を大日本帝国に奪われ、2億両の賠償金を課せられる屈辱を味わった。危機感を感じた光緒帝は西太后の影響力を排して親政を開始。梁啓超・康有為ら若手官僚を起用して日本の明治維新をモデルとする抜本的改革運動(戊戌の変法)をスタートした。しかし、これに憤った西太后らの保守派がクーデタを起こし、光緒帝は幽閉され変法は頓挫した。その後、1900年の義和団事件で流石の西太后も改革の必要性を痛感し、憲法発布や科挙廃止などを軸とする光緒新政が始まったが、光緒帝は相変わらず幽閉されたままだった。1908年10月21日に崩御。享年34。西太后も翌22日に亡くなった。なお、2000年代の調査で光緒帝の体内から大量のヒ素が検出され、毒殺されたことが判明した。従甥の溥儀が宣統帝として即位した。