ロシア帝国
ロシア帝国(Российская империя)とはかつて、ロシアを中心に存在した専制君主制国家である。
概要[編集]
それまでロシアはロシア・ツァーリ国の動乱時代であった。そこでロマノフ家が台頭しロシアを統治し始めた。そして、勢力拡大を図るスウェーデン帝国に大北方戦争で勝利し、1712年新都市のサンクトペテルブルクを建設・遷都を行いにロシア帝国を成立させた。ロシア帝国の領土はロシア、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラルーシ、ポーランドの一部、モルドバ、ウクライナ、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギス、満州の一部、アラスカまで及んでいた。
歴史[編集]
始まり[編集]
1709年にピョートル1世の指揮で大北方戦争勝利後、ニスタット条約でスウェーデン帝国から領土を割譲させた。これにより、ロシアはヨーロッパの列強と見なされるようになる。ピョートル1世は1712年にサンクトペテルブルクを建設し新たな首都とした。ピョートル1世はこの時、西欧化政策を進めた。またピョートル1世はアラスカなどの東方へ探検を行わさせ、またオスマン帝国からアゾフを獲得し、南下政策を進めていくことになる。
エリザヴェータの政治[編集]
1725年のピョートル1世の死去後、継承問題でエカチェリーナ1世、ピョートル2世、アンナ、イヴァン6世ところころ変わった。1741年にピョートル1世の娘のエリザヴェータはクーデターを決行し、皇帝に即位。その後、ピョートル1世の専制君主政治を再建・強化しようと手を入れ始めた。まず内閣制を廃止し、皇帝官房による貴族政治に戻した。そして産業にも力を入れた。しかしロシアの農奴制を強化し、農奴に対する政策によって農奴から反感を買った。
啓蒙専制君主制[編集]
エリザヴェータは対外的にオーストリア帝国を支援し、オーストリア継承戦争、7年戦争では支援を行った。しかし、7年戦争の最中にエリザヴェータは死亡する。続いてピョートル3世が皇帝に即位、ピョートル3世はプロイセン側のフリードリヒ2世を尊敬していたためにオーストリアへの支援を打ち切り、7年戦争はプロイセンの勝利で終わった。ピョートル3世は政治的にも未熟な点が多く、これを見た妻のエカチェリーナ2世はクーデターを決行しピョートル3世を幽閉し皇帝に即位する。
エカチェリーナ2世が即位したころはフランス革命やアメリカ独立戦争が起こっており、ロシアでも革命が起こる不安が高まり、エカチェリーナ2世は啓蒙専制君主制を推進し、改革を行なった。まず1768年に露土戦争でオスマン帝国と交戦、1783年にクリミア・ハン国を併合した。1772年にはポーランド分割を主導し、領土拡大を図った。
ナポレオン戦争[編集]
エカチェリーナ2世の死去後、アレクサンドル1世が皇帝に即位。その頃ナポレオン戦争が勃発しておりナポレオンのモスクワ遠征に対して抵抗し迎え撃ち、フランス第一帝政を破った。その後、ウィーン会議を主導し、戦後のヨーロッパの国際秩序のあり方を取り決めた。フランス革命による自由主義などの思想がヨーロッパ各国に浸透し、ロシアでもその機運が高まった。その後アレクサンドル1世は死去しニコライ1世が即位。この間に1820年代後半にデカブリストの乱が発生。この乱は鎮圧されてしまったが、ロシア革命の出発点ともなった。
南下政策[編集]
ニコライ1世は南下政策を推進し、ギリシャ独立戦争でギリシャ王国を支援、オスマン帝国と交戦し、オスマン帝国を打ち破った。その後黒海北岸部を割譲させた。また1848年革命によりヨーロッパではウィーン体制が崩壊、しかしロシアは依然としてツァーリズムによる専制君主制が取られており、ロシアは大国意識を強め南下政策を強行した。1853年にオスマン帝国とクリミア戦争を開戦。ロシアの膨張政策を恐れたイギリスとフランスはオスマン帝国側について参戦。この時ロシアの軍装備は英仏のものよりも遅れており、敗戦した。この時ニコライ1世は死亡しアレクサンドル2世が皇帝に即位した。
勢力拡大[編集]
南下政策は一旦あきらめ、クリミア戦争による敗戦で、ロシアの後進性が問われた。そこでアレクサンドル2世は農奴解放令を宣言した。この頃アナーキズムに影響されたナロードニキ運動が盛んになっていく。
南下政策を諦めた後、アレクサンドル2世は中央アジアや極東に目をつける。まずはアフガニスタン王国に介入し、アフガニスタンを保護国化した。さらに極東でも清と北京条約を締結。これによりロシアの沿海地方の領有が認められた。ここでウラジオストクの建設が行われ、ロシアの極東における影響力を拡大させた。
1870年にアレクサンドル2世は南下政策を再推進し、オスマン帝国と露土戦争を再開戦した。そこでブルガリア王国を建国、サン=ステファノ条約を締結させた。これに大英帝国やオーストリア帝国は反発した。これを受け1878年にビスマルクが主催するベルリン会議で調停を主導。ブルガリア領土縮小など、ロシアのバルカン半島進出は抑制された。
ベルリン会議によるロシアによるヨーロッパの影響力拡大が抑制されたのち、朝鮮半島や満州へ影響力を拡大すべく、アレクサンドル2世は1891年にシベリア鉄道の建設に乗り出した。この時皇太子(のちのニコライ2世)が訪日し、警官に襲われる大津事件が発生した。
社会主義の台頭[編集]
1870年代、ナロードニキ運動が加速し、社会主義の台頭につながった。プレハーノフがロシアにマルクス主義を持ち込み、レーニンはロシア社会民主労働党を結党した。しかし意見の対立により、レーニンの主導する多数派のボリシェベキとプレハーノフの主導する少数派のメンシェベキに分裂した。
極東での勢力拡大[編集]
1894年にニコライ2世が皇帝に即位すると、ニコライ2世は南下政策を推進し、満州や朝鮮半島での影響力の拡大に乗り出す。日清戦争後、日本は清から台湾や遼東半島を割譲させた。ロシアは日本の大陸進出を警戒し、ドイツ、フランスと共に三国干渉を行い、遼東半島の返還をさせた。その見返りとしてロシアは清と満州での鉄道利権の密約を結び、東清鉄道の建設を開始する。そして義和団事件が発生するとロシアはその他列強とともに清へ出兵、中国での影響も強めようとした。このロシアの勢力拡大を恐れたイギリスと日本は日英同盟を締結し、ロシアに対抗。1904年に日露戦争が勃発する。しかしロシアは日露戦争で敗戦し、アメリカの仲介でポーツマス条約が締結される。ロシアは日本にいくつか領土を引き渡した。その後、ロシアによる帝国主義による権威は後退を重ねた。さらに日露戦争中は戦争にしか力を入れておらず、民衆は食糧不足で怒りを買った。これにより1905年に第一次ロシア革命が勃発する。労働者や農民はソヴィエト(評議会)を各地で結成した。
第一次世界大戦からロシア革命[編集]
ロシアの極東進出は日本の台頭により頓挫され、再びバルカン半島進出へ目を向けることになった。ロシアは汎スラブ主義を唱えてスラブ民族を連携を深めようとした。それに対してドイツ、オーストリアが唱える汎ゲルマン主義と衝突した。これによりバルカン問題に拍車がかかった。これによりドイツとオーストリアとの対立が明確になり、それまで対立していたイギリスとの連携を模索し、英露協商を締結した。そしてフランスとの三国協商が形成された。
1914年にサラエボ事件が発生しオーストリアはセルビアに対して宣戦布告を行う。これに対してロシア帝国はオーストリアに宣戦布告をする。これにて第一次世界大戦が勃発する。ドイツはオーストリアとの同盟国なので、ロシアに対して宣戦布告を行い、侵攻を開始した。タンネンベルクの戦いでロシアは敗北を喫すると皇帝政治による権威がいっそう弱まった。ドイツ軍による侵攻が続く中、戦争は長期化しより反皇帝運動が高まった。そして1917年2月にペトログラードで第二次ロシア革命が発生、ニコライ2世は退位を宣言し、ロマノフ朝は倒れた。その後レーニンがロシアに帰国し十月革命が発生するとニコライ2世とその家族はボリシェベキによって暗殺された。これによりロシア帝国は崩壊しロシア内戦へ移り変わってゆく。