ピョートル1世
ピョートル1世(露:Пётр I)とは、ロマノフ朝・モスクワ大公国の5代目ツァーリ及びロシア帝国の初代皇帝。大北方戦争の勝利やロシアの西欧化に貢献したことからピョートル大帝(露:Пётр Вели́кий)と称される。なお、当記事中の日付は全てユリウス暦である。
生涯[編集]
親政開始まで[編集]
1672年5月30日、モスクワ大公アレクセイの5番目の皇子として生まれる。1676年に父が、1682年4月27日に兄のフョードル3世が相次いで崩御した。4男のイヴァンには精神障害があったため末弟のピョートルが帝位を継いだ。しかし、これに待ったをかけたのが外戚のミロスラフスキー家と姉の皇女ソフィアである。同年5月、ソフィアらに扇動された暴徒がクレムリンに乱入しピョートルの家族や家臣を軒並み殺害した。イヴァンがイヴァン5世として共同皇帝の地位につけられ、ピョートルは事実上宮廷から追放された。やがてソフィアはオスマン帝国や清との戦争に敗北したことで軍の支持を失い、1689年9月にピョートル派が起こしたクーデターにより失脚。彼女は修道院に幽閉され、玉座を取り戻したピョートル1世が満を持して親政を開始した。
西欧化政策[編集]
1694年に母が、1696年にイヴァン5世が死去したことで晴れて単独統治者となったピョートルは、ロシアの西欧化に乗り出した。1697年3月から約半年間に渡って250人の使節と共にオランダのアムステルダムに赴き、造船技術を学んだ。なお、この際ピョートル自身も身分を隠して船大工として働いたが、彼は身長2メートルを超える大男だったため速攻で見破られてしまった。滞在を終えるとオランダやイングランドで雇った1000人近くの技術者と共に帰国し、大艦隊を建造して来たるスウェーデンとの戦争に備えた。
文化面では西欧風の服装を義務付け、ロシアの伝統的な長髭を禁じた。髭に税金を課したことでも有名である。また、改革の推進に際してモスクワ大主教を始めとするロシア正教会や保守派貴族の影響力の強いモスクワを嫌ったピョートルは、1703年から自身の名を冠したドイツ風の新都ペトログラードの建設を開始した。
大北方戦争[編集]
1697年、スウェーデン王カール11世が崩御し、その息子のカール12世がわずか14歳で即位した。バルト海進出と不凍港確保を狙うピョートルはこれを好機と捉え、プロイセン王国・デンマーク・ポーランドと同盟し、1700年スウェーデンに宣戦布告した。大北方戦争の始まりである。初戦のナルヴァの戦いでは惨敗したものの、1708年のポルタヴァの戦いでは大勝利を収め、追い詰められたカールはオスマン帝国に逃亡した。一方海でも強化した海軍によって勝利を重ね、1720年のグレンガム島沖の海戦でスウェーデン艦隊を壊滅させた。1721年に二スタット条約を締結し、エストニア・カレリアなどバルト地域の大半を手に入れた。この業績により同年10月22日に元老院から「インペラートル(皇帝)」の称号を授かった。ロシア帝国の始まりである。
晩年[編集]
治世末期のピョートルは後継者問題に悩まされた。唯一成人した男子である皇太子アレクセイは保守的な考えに染まって反ピョートル派貴族に抱き込まれ、父と西欧化改革を巡り度々対立した。1716年、ピョートルはアレクセイの廃嫡を決定し、身の危険を感じた皇太子は神聖ローマ帝国のウィーンに亡命した。しかし、翌年にアレクセイはナポリで逮捕されてロシアに送還され、まもなく獄死した。
1724年の末、難破した船の乗組員を救助するため真冬の海に飛び込んだことで体調を崩し、1725年1月28日に崩御した。享年53。正式な後継者を定めていなかったため、2人目の妻のエカチェリーナがエカチェリーナ1世として即位した。
逸話[編集]
- 1人目の妻(エヴドキヤ)とは性格が合わなかったため、強制的に離婚し修道院に幽閉した。
- 2人目の妻(エカチェリーナ)が浮気したことで激怒。相手の首を刎ねてホルマリン漬けにし、エカチェリーナの寝室に飾らせたという。