孝文帝
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孝文帝(こうぶんてい)とは、北魏の6代目皇帝。姓は拓跋(たくばつ)→元(げん)、諱は宏(こう)。
生涯[編集]
467年10月13日、献文帝の長男として生まれる。471年9月20日、父帝が摂政の馮太后の圧力により退位したことで僅か4歳で北魏皇帝の位についた。実権は相変わらず馮太后の手にあったものの、彼女は優れた政治能力により家臣を統率し、三長制や均田制といった中華王朝的諸制度の採用により北魏の中央集権化と漢化を進めた。馮太后のこれらの政治姿勢は後の孝文帝に影響を与えたと言われる。
490年の馮太后死去に伴い親政を開始。493年、南朝斉への親征と称して洛陽に進軍し、そこで平城からの遷都を宣言した。さらに宮廷における胡語や胡服の使用を禁じるなど急速的な漢化政策を実行。国姓も拓跋から漢風の元に改められた。499年4月26日に志半ばの33歳で崩御。長男は反乱を起こして処刑されていたため、次男の元恪(宣武帝)が後を継いで即位した。孝文帝の一連の改革により北朝は大きな進化を遂げ後の隋主導の中華統一に大きく貢献するわけであるが、軍人を中心とする保守層は漢化に反発し、北魏衰退の遠因となった。
関連項目[編集]