蕭衍
武帝(ぶてい)とは、南朝梁の初代皇帝。姓は蕭(しょう)、諱は衍(えん)。南朝の最盛期を築いた名君であると同時に梁を崩壊させた暗君でもある。仏教に深く帰依し、皇帝菩薩の渾名で呼ばれる。
生涯[編集]
梁を開く[編集]
464年、南朝斉の帝室蕭氏の分家に生まれる。若い頃から文武両方に秀でており、将来を期待されていた。500年、暴君として有名な斉の皇帝蕭宝巻が兄の蕭懿を冤罪で誅殺したことに激怒し、皇弟蕭宝融(和帝)を担いで都建康に進軍。餓死者も出る悲惨な包囲戦の末、501年12月に蕭宝巻を倒し建康を陥落させた。翌502年、蕭衍は和帝から皇帝位を禅譲され、国号を梁に改めた。
治世前半の武帝は土断法の施行、質素倹約、後の科挙に通じる官吏登用制度の整備に力を入れた。また、この頃の江南は経済が発展し、『文選』で有名な昭明太子(武帝の長男)が活躍するなど南朝全体を通じての最盛期を迎えた。527年には鐘離の戦いで北魏の軍に大勝した。
転落[編集]
しかし、530年頃から武帝の治世に陰りが見え始める。この頃の武帝は仏教への信仰心をさらに高め、「捨身」と称して莫大な財産を寺の建立や寄付に注ぎ込み、次第に梁は財政は傾いた。さらに武帝は身内の不正に甘かったため綱紀が緩み、汚職や官吏の収奪が相次いだことで民心も離れていった。
548年、東魏の武将侯景が梁への帰順を申し出た。東魏を潰す好機と捉えた武帝は家臣の反対にも耳を貸さずこれを受け入れ、侯景に援軍を送った。しかし侯景と梁の連合軍は東魏軍に敗退、甥の蕭淵明は捕虜となった。武帝の重臣朱异が講和及び遠回しに侯景の身柄引き渡しを提案したことで焦った侯景は、反乱を起こし建康を包囲した。官軍はよく耐えたが脱走兵が相次ぎ、549年3月にとうとう開城した。武帝は侯景によって幽閉され、食事も満足に与えられず6月12日に崩御した。享年85。皇太子の蕭綱が侯景によって擁立された。
関連項目[編集]