建文帝

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恵宗建文帝(けいそうけんぶんてい)とは、の2代目皇帝。姓は(しゅ)、諱は允炆(いんぶん)。

1377年12月5日に生まれる。父は洪武帝(朱元璋)の長男朱標。祖父洪武帝は允炆を大変可愛がり、1392年に朱標が死去するとわずか15歳で皇太子となった。洪武帝は孫の権力を盤石にするため建国の功臣を相次いで処刑したが、親族に甘かったようで皇族第二の実力者の四男朱棣は粛清を免れた。1398年に祖父が崩御したことで明の2代目皇帝となった。建文帝は叔父達の権力削減に取り掛かり、周王・斉王・岷王・代王・湘王を次々と逮捕した。次は自分が取り潰されると考えた燕王朱棣は1399年に挙兵した。靖難の役である。建文帝の官軍は圧倒的に有利だったが、有能な将軍がおらず対応が後手に回ったために敗戦を重ね、1402年に反乱軍は南京に達した。7月13日、建文帝は宮殿に火を放ち自殺した。享年25。朱棣が永楽帝として即位した。なお、中国では建文帝の生存説が有力らしく、僧侶に変装して正統帝の時代まで生き残ったとされている模様。