朱元璋
太祖洪武帝(たいそこうぶてい)とは、明の初代皇帝。姓は朱(しゅ)、諱は元璋(げんしょう)。
生涯[編集]
紅巾の乱に参加[編集]
1328年9月18日、現在の安徽省の貧しい農村に4男として生まれる。元璋が生まれた際、家全体が紅く光り輝いたという。1344年、淮河の一帯で飢餓と疫病が起こり、両親と兄が死亡。元璋は親類の伝で出家し皇覚寺に入ったが、食料事情は相変わらず苦しく乞食同然の生活を送っていた。1351年、白蓮教信者らが紅巾の乱を起こした。 元の官軍は皇覚寺が反乱軍に通じているとして焼き払ったため、怒った元璋は紅巾族に加わることを決意した。朱元璋は軍功を重ね、リーダーの郭子興は褒美として養女(後の馬皇后)を与えて結婚させた。馬皇后は慈悲深い性格であり、猜疑心の強い元璋も彼女には心を開いていたという。また、この頃徐達や李善長、劉基といった有能な家臣団を獲得した。
中華統一[編集]
郭子興の死後独立した朱元璋はライバルの陳友諒、張士誠をそれぞれ1364年と1367年に倒し、江南の地を制した。また、この時期から権力維持に邪魔となりつつあった白蓮教を弾圧するようになった。1367年10月、元璋は満を辞して北伐を開始。元軍は碌な抵抗もせず、皇帝トゴン・テムルは大都を捨ててカラコルムへ逃亡した。1368年、元璋は応天府にて自身の皇帝即位を宣言。年号を洪武に改め、国号を明とした。これにより約100年ぶりに漢民族の王朝が復活したこととなる。
大粛清[編集]
即位後の洪武帝は『六諭』の発布や魚鱗図冊と賦を役黄冊の編纂、衛所制・里甲制の施行による農民の統制の力を入れた。また、中書省を廃止して六部を皇帝自らの支配下に置き、皇帝の独裁を強めた。しかし、洪武帝が何よりも力を入れたのは粛清である。元々猜疑心の強い朱元璋は即位してから更なるパラノイアに陥っており、紅巾族以来の功臣達を次々処刑または自害に追い込んだ。さらに、知識人層を反逆の罪により1万人単位で処刑。「光」の字を使った学者が、洪武帝がかつて僧侶だったことを馬鹿にしているとして誅殺されたこともある。
崩御[編集]
晩年になっても洪武帝の粛清は止まることを知らなかったが、1398年6月24日に69歳で崩御したことでようやく落ち着いた。孫の允炆が建文帝として即位したが、後の靖難の役で四男の朱棣に倒され、彼が三代目皇帝永楽帝となった。
余談[編集]
朱元璋は顎が突き出た異形だったとされており、実際マンゴーのような顔の肖像画が多く残っている。