咸豊帝

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文宗咸豊帝(ぶんそうかんぽうてい)とは、の9代目皇帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、諱は奕詝(えきちょ)。

1831年7月17日に誕生。父は道光帝で4人目の男子である。1850年、道光帝の崩御によって19歳で皇帝に即位するが、翌年に洪秀全率いる拝上帝会が太平天国の乱を起こした。清の八旗や緑営は腐敗していたため連戦連敗で、1853年には南京が陥落した。また、1856年にアロー号事件を発端としてイギリスフランスの間でアロー戦争が勃発。1858年天津条約を結んで講和したが、これに不満を抱いた清軍過激派による英仏艦隊への砲撃事件が発生し、再度戦闘が再開された。英仏軍は破竹の勢いで北京に迫り、咸豊帝は一時熱河への避難を余儀なくされた。1860年に締結された北京条約により、イギリスに九竜半島を割譲のうえ多額の賠償金を課せられた。さらに、どさくさに紛れてロシア帝国沿海州を奪われた。1861年8月22日、咸豊帝結核で崩御した。享年30。西太后との息子載淳が同治帝として後を継いだ。咸豊帝は勤勉な性格で政務を怠らなかったが、内憂外患にうまく対処することは出来なかった。