北魏
北魏(ほくぎ)とは、かつて中国華北に存在した王朝である。正式な国号は「魏」であるが、曹丕が建てた三国志時代の曹魏と区別するために「北魏」「元魏」「後魏」などと呼ばれることが多い。当ページでは最もメジャーな「北魏」を採用する。
興隆[編集]
五胡と呼ばれた5つの異民族の一つ鮮卑の拓跋氏は、前秦が淝水の戦いで東晋に大敗後空中分解した混乱に乗じて386年に魏を建国した。初代皇帝の拓跋珪(道武帝)は後燕を破って中原の全域を支配下に置き、平城を帝都に構えた。晩年の拓跋珪は疑心暗鬼に陥り409年に次男拓跋紹に殺害され、その拓跋昭を殺害した甥の拓跋嗣が2代目明元帝として即位した。そして423年に即位した3代目太武帝は北涼を滅ぼし、永嘉の乱以来150年に渡って分裂していた華北の再統一を成し遂げた。なお、華北統一後の太武帝は道教にどハマりし、寇謙之の進言を取り入れて廃仏を行ったりしたが、452年に宦官に殺害された。
漢化の推進[編集]
太武帝死後の北魏は混乱が続いていたが、471年に6代目孝文帝が擁立されると政局は安定した。
太武帝の頃から北魏の支配階級の間では騎馬遊牧民の伝統を捨て、漢民族の文化を取り入れようとする潮流があった。実際に、史書編纂の際に拓跋氏の習俗をありのままに記述した官僚が太武帝の怒りを買って誅殺される事件が発生している(国史の獄)。
孝文帝の母・馮太后は儒教的儀式を採用し、三長制や均田制を創始した。親政開始後の孝文帝はより急速な漢化政策を推進、平城から洛陽に遷都したほか、鮮卑語や胡服の使用を禁止とし、皇族の姓を「拓跋」から中華風の「元」に改めた。彼の治世は北魏の最盛期と評価されている。
衰退と分裂[編集]
499年の孝文帝の死後も、北方の柔然や南の梁相手の戦争を有利に進め、北魏は繁栄を謳歌していた。しかし、8代目孝明帝の523年、北方警備にあたっていた軍人たちが過度な漢化政策への反発などから六鎮の乱を起こした。この乱は530年に爾朱栄によって鎮圧されたが、彼の一族が専横を強め、これに反発した高氏・宇文氏との権力争いが繰り広げられた。この過程で528年から534年までのわずか6年間に6人もの皇帝の擁立・廃位が繰り返され、平陽王の死後、高歓の傀儡の孝静帝(→東魏)・宇文泰の傀儡の文帝(→西魏)が即位し北魏は東西に分裂した。