嘉靖帝
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世宗嘉靖帝(せいそうかせいてい)とは、明の12代目皇帝である。姓は朱(しゅ)、諱は厚熜(こうそう)。
生涯[編集]
1507年9月16日に生まれる。父は弘治帝の異母弟朱祐杬。1521年、従兄正徳帝の崩御により明の皇帝に即位。当初は先帝時代の奸臣の処分や綱紀粛正に力を注いだが、官僚たちの間で嘉靖帝の父母を皇帝として敬うかどうかの大論争(大礼の儀)が勃発。呆れた嘉靖帝はやる気を無くし、政務を顧みず道教の修行に没頭するようになった。当時の明朝は1550年のモンゴルのアルタン・ハーンによる北京包囲や、後期倭寇の活動激化など北虜南倭と呼ばれる外患に苦しんだ。しかし、当の嘉靖帝は丹薬(不老不死の薬)作りにのめり込んだ。処女の経血と水銀で出来る丹薬の調合を命じ、全国から1000人余りの若い処女を集めさせた。彼女達は食事も満足に与えられない家畜以下の扱いを受け、1542年、とうとう就寝中の嘉靖帝を絞殺しようとする事件まで起こした(壬寅宮変)。1567年1月23日、長年の丹薬服用による水銀中毒で崩御した。享年59。三男の載坖が隆慶帝として後を継いだ。
三人の正室[編集]
- 陳皇后 - 美しいが嫉妬深い性格だった。1528年のある日、嘉靖帝が彼に茶を差し出した側室の手に見惚れていたところ激昂、茶碗を地面に投げ捨てた。嘉靖帝は逆上し、妊娠中だった彼女を引き倒して流産キックをお見舞いした。これが原因となり、同年陳皇后は20歳でこの世を去った。
- 張皇后 - 陳皇后の後釜。慎ましく従順な性格だったが、突如嘉靖帝の怒りを買って幽閉され、そのまま1537年に亡くなった。
- 方皇后 - 張皇后の後釜。壬寅宮変の際、意識不明の嘉靖帝に代わって宮女らを処罰した。しかし、嘉靖帝の寵妃も冤罪で殺されたため恨みを買い、1547年、火事が起きた時に見殺しにされた。