文帝 (南朝宋)
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文帝(ぶんてい)とは、劉宋の3代目皇帝。姓は劉(りゅう)、諱は義隆(ぎりゅう)。
407年に劉裕の三男として生まれる。424年、兄の少帝が廃位されたことで宋の三代目皇帝に即位した。文帝は徐羨之ら重臣を兄を殺した罪で次々と処刑した一方、北方の北魏と講和を結び、学問や仏教を保護した。これにより劉宋は「元嘉の治」と呼ばれる最盛期を迎え、陶淵明などの文化人が活躍したほか、「後漢書」や後の三国志演義にも取り入れられた「三国志」の注釈書が完成した。しかし、治世後半に差し掛かると猜疑心がますます強くなり、北魏との戦争も再開して国が大いに乱れた。453年、文帝は皇太子の劉劭が呪いの儀式を行ったことに激怒し廃嫡しようと考えた。しかし、これを察知した劉劭サイドに先手を打たれ、クーデターを起こされた。3月16日早朝、寝起きの文帝は刺客に指を切り落とされたうえに腹部を刺されて死亡した。享年46。その後僅か3ヶ月で三男の劉駿が劉劭を倒し、彼が孝武帝として即位した。