明帝 (南朝宋)
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明帝(めいてい)とは、劉宋の6代目皇帝。姓は劉(りゅう)、諱は彧(いく)。
439年12月9日に生まれる。父は文帝で、11番目の男子であった。464年に劉彧の甥に当たる劉子業(前廃帝)が即位するが、劉彧は彼に「猪王」と呼ばれ、泥水の中で食事をさせられるなどの虐待を加えられた。前廃帝はそのほかにも数々の道徳に反した行動を起こしたため人心を失い、466年1月、劉彧は重臣たちと組んで前廃帝を殺害。自らが明帝として宋の玉座についた。明帝は帝位を脅かす恐れのある前廃帝の兄弟20人以上を処刑したが、北魏の侵攻や各地の反乱の対応に忙殺されていたのでそれ以上の粛清は出来なかった。晩年の明帝は極度の肥満により性的不能に陥り、家臣の妻が妊娠すると後宮に召して自分の子として出産させるなどの奇行に走ったという。472年5月10日に崩御。享年32。長男劉昱が後を継いだ。