後主 (陳)
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後主(こうしゅ)とは、陳の5代目皇帝。姓は陳(ちん)、諱は叔宝(しゅくほう)。
生涯[編集]
553年12月10日に生まれる。父は後に陳の宣帝となる陳頊。宣帝が崩御したことで582年2月20日に帝位を継いだが、酒と女に入り浸り国政を顧みることはなく、奏上は寵妃張麗華と戯れながら宦官を通じて聞いていたという。588年、華北を統一した隋の文帝(楊堅)は、陳征伐のための大軍を江南に派遣した。陳の軍隊は碌な抵抗もせず、翌589年、隋軍は遂に都建康に到達した。これを聞いた後主は張麗華らと共に宮廷内の井戸に隠れたが、結局見つかって捕虜となった。亡国の君主は殺されるのが通例であったが、後主があまりに無能だったので呆れた楊堅は彼を生かしたという[1]。604年12月16日に洛陽で亡くなり、天寿を全うした。享年51。
余談[編集]
- 政治の才は無かったが、詩は得意だったようで六朝文学の完成系とも言える詩風の作品を多数残している。
- 楊広は後主に暴君という意味の「煬帝」の諡号を送ったが、皮肉なことに楊広自身が後に煬帝と呼ばれることとなる。
関連項目[編集]
注釈[編集]