永楽帝

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成祖永楽帝(せいそえいらくてい)とは、の3代目皇帝。姓は(しゅ)、諱は(てい)。

燕王時代[編集]

1360年5月2日に生まれる。父は朱元璋(後の洪武帝)、母は馬皇后(信憑性に疑問あり)。幼い頃は歴史地理の本を好んで読み、内容を暗記する抜群の記憶力を示したという。1368年に父朱元璋が中華を統一し明を建てると燕王に封じられた。当時の燕の地は対モンゴル戦の重要拠点であり、朱棣が皇子たちの中でも群を抜いて洪武帝に高く評価されていたことがわかる。

靖難の役[編集]

1398年に洪武帝が崩御し孫の建文帝が即位。建文帝は叔父たちを次々と排除していき、最後に残された朱棣もいよいよ圧力を加え始めた。朱棣は障害者のふりをしてやり過ごそうとしたが失敗したため、進退極まって1399年に挙兵した。朱棣は反乱の目的はあくまで君側の奸を取り除くことにあるとしたが、その狙いは完全に帝位にあった。燕王軍は兵力で不利だったが戦いを有利に進め、1402年南京の守りが手薄であるという情報を掴むと一気に攻め上がった。守備軍は抵抗せず開城し、建文帝は宮殿に火を放って果てた。

粛清[編集]

甥から帝位を奪った朱棣は永楽帝として即位。建文帝の家臣を根こそぎ殺害したが、方孝孺は許すつもりだったらしく自身の即位の詔を書くよう命令した。しかし、これに対して孝孺は永楽帝に「燕賊簒位(燕の盗賊が帝位を奪った)」という4文字の手紙で返答した。怒り狂った永楽帝は孝孺を捕えるとその親族はもちろん友人まで870人余りを処刑した。

外征[編集]

甥から帝位を簒奪したことから当時の永楽帝に対する世間の目は冷たく、永楽帝はイメージ挽回のため政務に励んだ。「永楽大典」「四書大全」「五経大全」「性理大全」といった儒学書の編纂に加え、内閣大学士(事実上の宰相)のポストを設置した。また、対外政策も積極的に繰り出し、再び勢力を増してきたモンゴルへの親征を5回行った。また、イスラム教徒の宦官鄭和に命じて7回にわたりインド洋へ大艦隊を派遣した。南方方面では北ベトナムに遠征しこれを直轄領としている。足利義満を日本国王に冊封したのも永楽帝である。なお、彼の時代に都が南京から北京に移された。

最後[編集]

5回目のモンゴル遠征の帰途の1424年、現在の内モンゴル自治区付近で病を得、8月12日に崩御した。享年65。長男が洪熙帝として後を継いだ。彼の治世下で明の領土は最大になったが、度重なる戦争で財政は逼迫した。

関連項目[編集]