乾隆帝

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高宗乾隆帝(こうそうけんりゅうてい)とは、の6代目皇帝である。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、名は弘暦(こうれき)。

生涯[編集]

1711年9月25日雍正帝の4男として生まれる。父は聡明な弘暦を大変気に入り、後継者に指名した。1735年、父の崩御により中華皇帝に即位した。

乾隆帝は祖父と父の方針を受け継いで内政を取り仕切り、減税を行って民衆の生活を安定させた。文化面では四庫全書の編纂を命じ、カスティリオーネらの西洋人を重用した。他方、反満思想には父に引き続き厳しい弾圧を加えている。乾隆帝が最も熱心に取り組んだのは外征で、生涯を通じて「十全武功」と呼ばれる10回の大規模な遠征を行った。この結果ジュンガルを完全に支配下に置き、清の領土は最大に広がった。

ただ、治世後半以降は奸臣の登用や度重なる戦争の伴う国庫の貧窮、完全な鎖国体制を敷いたことによって西洋に技術的遅れをとるなど失政が目立つようになり、後の清の滅亡のきっかけともなった。1793年にはイギリスのマカートニー使節団が貿易赤字解消のため交渉を求めてきたが、イギリス側が三跪九叩頭の礼を拒否したため失敗に終わった。乾隆帝は祖父の康熙帝を非常に尊敬しており、1795年に祖父の在位期間61年を超えないよう生前退位した。皇帝位は15男の嘉慶帝が継いだ。以後も約4年間に渡って上皇として君臨し続け、1799年2月7日に崩御した。享年87で、中国の歴代皇帝で最も長寿である。

関連項目[編集]