万暦帝
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神宗万暦帝(しんそうばんれきてい)とは、明の14代目皇帝。姓は朱(しゅ)、諱は翊鈞(よくきん)。中国史上最も有名な暗君の一人である。
生涯[編集]
1563年9月4日、隆慶帝の三男として生まれる。兄達は皆夭折していたため、1572年に父帝が崩御するとわずか9歳で帝位を継いだ。母と一条鞭法で有名な宰相張居正の方針により厳しい帝王教育を受け、将来を期待されていた。ところが、1582年に張居正が死去し親政を開始すると全く政治への興味を示さず、後宮に引き篭もって朝廷の会議にも顔を出さなくなった。大臣のポストが空いても後釜を任じることはなくそのまま放置され、政府は機能不全に陥った。治世後半には成化帝が作った宦官のスパイ組織しかまともに働いていなかったという。官僚達も東林派と非東林派が政争に明け暮れて国を省みず、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)に対抗して朝鮮に援軍を出したことで財政が破綻した。このような悲惨な状況の中、1620年8月18日に崩御した。享年56。息子の泰昌帝が後を継いだ。万暦帝の治世下で明朝は回復不可能なほど堕落し、満州ではヌルハチが後金(→大清帝国)を樹立するなど明滅亡へのカウントダウンが始まっていた。このため「明史」では「明は万暦帝の代で滅んだも同然」と酷評されている。
死後[編集]
プロレタリア文化大革命中の1966年、彼の墓が紅衛兵に暴かれ、万暦帝と妃たちの遺体はガソリンをかけられ焼却された。