崇禎帝

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毅宗崇禎帝(きそうすうていてい)とは、の17代目にして最後の皇帝である。姓は(しゅ)、諱は由検(ゆうけん)。

生涯[編集]

統治の開始[編集]

1611年2月6日泰昌帝の5男として誕生した。1627年、兄の天啓帝が崩御。奸臣の魏忠賢らの手で彼の男児は全て殺害されていたため、弟の由検が帝位を継いだ。崇禎帝は魏忠賢を族誅に処す一方で名臣徐光啓を登用し、祖父や兄と違って酒や女に溺れることなく政務に励んだ。仕事に集中できないからという理由で宮廷内で香の使用を禁じたこともある。

致命的失敗[編集]

しかし、崇禎帝には致命的な欠陥があった。猜疑心が非常に強く、臣下を全く信用していなかったのである。彼の約14年にわたる治世下で50回も宰相が交代したことから分かるように、些細な事ですぐに部下を罷免した。1630年にはホンタイジの離間策にまんまとはまり、対清戦争で善戦していた名称袁崇煥を処刑した。こうした失策により明軍は弱体化しただけでなく士気も低下し、末期は離反が相次いだ。

明の滅亡[編集]

1628年から始まった李自成が指揮する農民反乱は、官軍の度重なる討伐にも関わらず拡大し続け、1641年洛陽が、1643年西安が陥落した。1644年、遂に反乱軍は北京を包囲した。崇禎帝は連日にわたって会議を開くがもはや状況を打開することは不可能だった。1644年4月25日、李自成軍が北京に雪崩れ込んだ。崇禎帝が非常事態を知らせる鐘を鳴らした時、駆けつけたのは宦官の王承恩だけだった。同日、崇禎帝は紫禁城の裏の景山で首を吊って自害、王承恩もその最後を見届けた後に主君に準じた。享年33。これにより太祖朱元璋洪武帝より約300年間続いてきた明朝は滅亡した。

死後[編集]

崇禎帝は娘を自らの手にかけたが、息子は明の再興を願って逃した。彼らは南明と呼ばれる亡命政権を開くが順治帝に滅ぼされ、残りの子孫も康熙帝に根絶やしにされ、明の皇統は断絶した。なお、崇禎帝の遺体は李自成の手で丁重に葬られた。

評価[編集]

後世の歴史家達は崇禎帝に同情的であり、「明史」でもかなり肩入れされている。また、彼に準じた宦官の王承恩は模範的な忠臣として江戸幕府でも高く評価された。

関連項目[編集]