正統帝

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英宗正統帝(えいそうせいとうてい)・英宗天順帝(えいそうてんじゅんてい)とは、の6・8代目皇帝である。姓は(しゅ)、諱は祁鎮(きちん)。暗君オールスターズの明の歴代皇帝の中でもトップを争う愚帝である。

生涯[編集]

治世前半[編集]

1427年11月29日宣徳帝の長男として生まれる。1435年に父が崩御したことで僅か9歳で帝位を継いだ。当初は母や宣徳帝時代の有能な家臣団が摂政として優れた統治を行っていたが、正統帝が親政を開始すると家庭教師だった宦官王辰を重用した。王辰は金銭に貪欲な性格であり、賄賂が横行したことで国政は腐敗した。社会不安から農民の反乱が相次ぎ、北辺ではモンゴル軍がたびたび長城を超えて侵入した。

土木の変[編集]

1449年、正統帝は王辰の献策に乗り、度々国境を犯すオイラト(当時強盛だったモンゴルの一部族)を討伐するための親征を決意。家臣の猛反対を押し切り50万の大軍で出陣した。しかし、遠征軍の大半は戦争経験が皆無の文官で構成されており、武官達も王辰の権勢の下で弛緩しきっていたうえ、そもそもの準備不足で水も食料も足りていなかった。このため明軍はエセン率いるオイラト軍相手に包囲殲滅され大敗し、正統帝は北京郊外の要塞土木堡で捕虜となった。中華の皇帝が野戦で異民族の捕虜となるのは前代未聞の事態であった。

復位[編集]

正統帝が捕えられたことで北京は混乱状態に陥ったが、弟の朱祁鈺が景泰帝 として即位し、北京包囲戦でオイラト軍を撃退したことで亡国の危機は免れた。その後講和が結ばれ正統帝は明側に返されるが軟禁状態となった。しかし1457年、景泰帝が病気を患った際に宮廷クーデタが起き、天順帝として復辟した。復位後も相変わらず暗愚であり、家臣の言いなりであった。1464年2月23日に崩御。享年38。息子が成化帝として帝位を継いだ。

関連項目[編集]