康熙帝
聖祖康煕帝(せいそこうきてい)とは、清の4代目皇帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、諱は玄燁(げんよう)。中国史上最高の名君との呼び声も高い。
生涯[編集]
幼少期[編集]
1654年5月4日、世祖順治帝の3男として生まれる。父は子の養育に関心がなく、幼い頃の康熙帝は北京で庶民同然の生活を送りながら育てられた。1661年に父が崩御し、宮廷の使者が彼を迎えに行ったところ、順治帝は他の子供達とともに路上で遊んでいたという。2月5日、康熙帝は6歳で清の皇帝に即位した。1669年、康熙帝は摂政として権勢を振るっていたオボイを捕らえて族誅に処し、親政を開始した。
反清勢力の排除と国境の安定[編集]
1673年、康熙帝は手始めに明清交代に当たって功のある3人の漢人武将(呉三桂・尚可喜・耿精忠)が収める3つの藩王国の廃止を決定した。当然彼らは激怒し三藩の乱が勃発する。一時は江南の大半が反乱軍の手に落ちる事態となったが、康熙帝の冷静な指揮と有能な軍人の登用により形勢は逆転し、1681年までに反乱は完全に鎮圧された。
台湾では明の遺臣である鄭成功が建てた鄭氏政権が抵抗を続けていた。順治帝の治世下で出された遷海令により台湾は経済に大打撃を受けており、1683年に康熙帝に降伏した。1689年にはロシア帝国のピョートル1世とネルチンスク条約を締結し北方の国境を安定させた。さらに1690年代以降はイリ・チベット方面のジュンガル討伐に力を入れ、1696年に決定的な勝利を収めた。
内政[編集]
康熙帝は真面目で勤勉な性格であり、朝5時に起床して政務に励み、儒教は勿論のこと幾何学など西洋の学問にも触れていた。また質素倹約にも力を入れ、宮廷予算が大幅に削減された。この結果、康熙帝時代の一年の宮廷費は明代の一日の宮廷費と同程度にまで減少した。こうした康熙帝の生活スタイルは君主の模範としてヨーロッパでも称賛された。国庫が潤ったことで減税を行い民の負担を減らし、さらに人頭税を事実上廃止したことで中国の人口は急激に増加した。キリスト教についても概ね寛容な態度をとり、イエズス会の宣教師たちとも交流を重ねた。
晩年[編集]
康熙帝は老いても血を吐くまで読書をやめず、自ら農村に赴いて民の意見を伺っていたという。一方、1703年に民王朝の末裔を捕らえて一族郎党皆殺しにし、文字の獄により反清的な学者に大弾圧を加えるなど汚点も残している。1722年12月20日に崩御。享年68。四男が雍正帝として後を継いだ。