李世民
李 世民(り せいみん)とは、唐の2代目皇帝。字は不明。廟号は太宗(たいそう)。最終的な諡号は文武大聖大広孝皇帝(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)。
生涯[編集]
前半生[編集]
599年1月23日に生まれる。父は後に唐の初代皇帝となる李淵。4歳の時、李淵を訪れた書生が李世民を見て「この子は成長すると世を治め、民衆を安心させるだろう」と言ったため、「世民」という諱が付けられたとされる。実際、李世民は武勇と見識に優れた青年に成長し、615年1月に隋の煬帝が雁門にて突厥に包囲された際には、軽騎兵を率いて突厥の撃退に成功した。618年に李淵が隋を見限って唐を建国すると、次男の李世民は秦王に封じられた。李世民は軽騎兵を縦横無尽に動かす戦略を用いて各地の有力な群雄(薛仁杲、王世充、竇建徳など)を次々と撃破。虎牢関の戦いでは寡兵で数倍の敵を破り、唐の天下を確固たるものとした。
軍功で圧倒的な支持を集める李世民に対し、皇太子である長兄李建成と三弟李元吉は危機感を募らせ、両者の後継者争いが勃発した。626年6月4日、先手を打った李世民は宮殿の北門(玄武門)で建成と元吉を待ち伏せして殺害。そのまま父・高祖のもとへ向かい、事実上の退位を迫った。これにより世民は8月9日に譲位され、唐の第2代皇帝(太宗)に即位した。
貞観の治[編集]
太宗は隋唐交代の余波で混乱した社会の安寧と王朝体制の整備に努め、その治世は後に「貞観の治」と称えられることとなる。太宗は特に農業を重視し、蝗害が発生した際には自らバッタを食して成敗したという。一連の業績には太宗自身の能力は勿論、「二十四功臣」と呼ばれる賢臣の活躍があったことも見逃せない。例えば宰相の魏徴は憚ることなく直諌を行い、太宗も彼の言葉に積極的に耳を傾けた。2人のやり取りは「貞観政要」にまとめられ、儒教の聖典として李氏朝鮮や徳川幕府でも愛読された。また、将軍の李靖は東突厥や吐谷渾などの異民族を討伐した。太宗と李靖の対話は兵法書「李衛公門対」としてまとめられ、高い評価を受けている。
晩年[編集]
しかし、明君太宗も治世後半に差し掛かると失政が目立つようになった。太宗は隋が果たせなかった高句麗討伐のため644年、647年、648年の3度にわたって朝鮮半島に遠征するものの最終的には失敗した。また、皇子の中で最も凡庸な3男李治(高宗)を皇太子に指名したことも晩節を汚す結果となった。649年7月10日、病により終南山で崩御した。享年52。彼が愛読していた蘭亭序も共に棺に納められた。
評価[編集]
太宗は中国史上指折りの名君として現在でも人気がある。しかし、宋代の太宗や朱熹は彼の政治姿勢は偽善的であるとの厳しい評価を下している。また、彼の功績は兄殺しや高句麗遠征の失敗など共通点が多い煬帝と対比するために多少脚色されている可能性が高い。
関連項目[編集]