国鉄D51形蒸気機関車
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国鉄D51形蒸気機関車
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SLぐんま みなかみに充当される498号機。 | |
運用者 | 鉄道省→日本国有鉄道→東日本旅客鉄道、西日本旅客鉄道 |
製造所 | 川崎車輛、汽車製造、三菱重工業、日立製作所、日本車輌製造、 苗穂工場・土崎工場・郡山工場・大宮工場・長野工場・浜松工場・鷹取工場・小倉工場 |
製造年 | 1936年~1945年 |
製造数 | 1115両 |
引退 | 1975年(定期運用) |
車軸配置 | 1D1[注 1] |
軌間 | 1067mm |
全長 | 19730mm |
全高 | 3980mm |
機関車重量 | 78.37t |
総重量 | 125.77t |
動輪径 | 1400mm |
軸重 | 14.30t |
シリンダ数 | 単式2気筒 |
シリンダー(直径×行程) | 550mm×660mm |
弁装置 | ワルシャート式弁装置 |
国鉄D51形蒸気機関車とは、1936年から1945年にかけて製造された貨物用テンダー式蒸気機関車。
- 主に貨物輸送のために用いられた蒸気機関車であり、
- 太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1115両に達している。[注 2]
- 2025年現在は山口線のSLやまぐち号[注 3]や主に上越線を拠点に運行されるのSLぐんま[注 4]の運用に使用されている。
- 現場の機関士からも操作性の良さから人気があり「デゴイチ(デコイチとも。詳細は後述)」の愛称は日本の蒸気機関車の代名詞になっている。[注 5]
概要[編集]
- 1929年にアメリカで始まった世界恐慌は、多くの国々に影響を及ぼした。当時の日本も恐慌のあおりを受け、そこから昭和恐慌が始まった。
- このような経緯から、1930年代前半の日本における鉄道輸送量は低下していた。
- そのため、恐慌発生以前に計画されていた、D50形以降の貨物用新形機関車の設計・製造は見送られた。
- 時は流れ、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきた。
- それを皮切りに、新形の貨物用機関車が求められるようになった。
- 鉄道省は当時、電気機関車専用のチームがあり基礎研究も行われていた。[注 6]
- しかし、電化区間がまだ短かったため、まだしばらくは蒸気機関車で輸送する状態のままだった。
- そのような経緯から、1935年に開発を始め、1936年から製造・運用を始めた。
- 製造においては、C11形のボイラーで実用化された電気溶接技術を応用している。
- また、C53形の複雑な設計や工作不良を改善したD51形では部分ごとの標準化やユニット化がされ、整備や修理が容易になった。[注 7]
製造[編集]
- 川崎車輛、汽車製造、三菱重工業、日立製作所、日本車輌製造の5社と鉄道省が保有していた8つの工場[注 8]から、1115両製造された。このうち、鉄道省が発注したのは1107両であり、残りの8両は3社の企業が発注している。[注 9]
- また、外地専用向けに69両製造されている。[注 10]
製造期の相違[編集]
- 初期形
- 1号機~85号機・91号機~100号機が該当し、1936年~1937年の間に製造された。
- 外観上の特徴としては、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水加熱器をレール方向に置き、それらを覆う長いキセを持つことである。
- 後に登場する通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになった。鉄道ファンからは「ナメクジ」の通称で親しまれた。[注 11]
- このうち、22号機&23号機(いずれも現存せず)はドームがさらに運転台まで延びているため「全流線形形」、略して「全流形」、あるいは「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれた時期があった。尚、23号機はキャブ側面にタブレットキャッチャーを、ランボード上にナンバープレートを装着していた。
- 標準形
- 86号機~90号機・101号機~954号機が該当し、1937年~1943年の間に製造された。
恐らく多くの方々が想像するであろう区分であり、最も多く造られた区分である。- 初期形の重量配分を改善するため、1937年~1938年に浜松工場で製造された86号機~90号機において改良試作が行われ、
- などの設計変更が行われた。
- これにより初期形で問題とされた点は概ね改善され、101号機以降はこの仕様で新製することになった。
- 1943年度製造分以降では、デフレクターやナンバープレート、炭水車の石炭庫側板を木材で代用し、また煙室前部上方と煙室扉上部の丸みを省略するなど、
- 金属資源節約と各部工程の簡略化が順次推し進められ、準戦時形と呼ぶべき仕様に移行していった。[注 12]
- 戦時形
(1000番台) - 1001号機~1161号機が該当し、1944年~1945年の間に製造された。
- 1001から付番した関係上、955~1000は当形式において欠番となっている。
- 準戦時形やD52形と同様に、ランボードやデフレクターなどに木材などの代用材を多用、煙室前部上方と煙室扉上部の丸みの省略、ドームのカマボコ形化[注 13]
- などの簡素化に加え、台枠を省略した船底形炭水車に変更するなど、資材節約・工期短縮を図った設計になり、缶圧と動輪上重量の増大が行われて牽引重量増が図られた。
もはやここまできたら新形式である。 - 戦時設計となったため、粗悪な代用材料を使用し、本来はリベット2列が基本だったボイラーなどの重要接合部をリベット1列に簡略化、さらに溶接不良が少なからずあった。[注 14]このおかげで機関士、機関助士からの評価は酷いものであった。
- 終戦後は、代用材使用部品の正規部品への交換、X線検査で状態不良と判定されたボイラーの新製交換などにより性能の標準化が行われた。
- しかし、性能面に影響のなかった部位はそのまま存置され、カマボコ形ドームや炭水車の形状などに特徴が残った。ごく一部の機体は、煙室前面と煙室扉上部の欠き取りもそのまま残されていた。
改造機[編集]
C61形[編集]
詳細は「国鉄C61形蒸気機関車」を参照
- 戦後、軍需貨物輸送が事実上消滅し、食糧難に起因する買い出しから旅客が急激に増加した。これにより、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転。
- これにより、戦時中に量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰されることにつながった。
- また、旅客用機関車は1942年以降製造されておらず、1946年~1947年にC57形32両(170号機~201号機)とC59形73両(101号機~132号機・156号機~196号機)を製造して不足分を埋め、以降旅客用機関車の増備を積極的に行い、旅客需要に対応するよう計画されていた。[注 15]
- ところが、預金封鎖が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥ってしまう。
- そのため、先述した2形式で埋められなかった不足分を確保すべく、1948年GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、C57形の軸配置(2C1)+従輪1軸を組み合わせた重量増に対応させた軸配置(2C2)の走り装置と、当形式のボイラーを組み合わせた。
- その機関車は新形式C61形となり、33両製造された。
D61形[編集]
詳細は「国鉄D61形蒸気機関車」を参照
- 本線の無煙化により、大型の蒸気機関車は余剰となりつつあった。そこで、線路規格の低い地方線区で活用するため、1960年に6両の従台車を交換し軸配置1D2とする軸重軽減の改造が施され、新形式のD61形となった。[注 16]
機器類の装備[編集]
- 重油併燃装置
- 戦後の国鉄において、石炭不足の対策として、石炭の節約を目的とした重油併燃装置の採用が計画された。[注 17]
- 重油タンクの装備位置は地域ごとに異なっていた。[注 18]
- また、肥薩線大畑越えに使用された人吉機関区所属のD51形は、ボイラー上のタンクの容量不足を補うために、助手席側ランボード上に200Lの補助タンクを装備していた。
- 集煙装置
- 北陸本線中ノ郷駅~今庄駅間において、柳ヶ瀬トンネルなどのトンネルや急勾配が続く難所であった。[注 19]
- そこで、同区間を担当する敦賀機関区で、煙を後方に流し、運転室への煙の流入を抑える集煙装置を考案した。322号機で試験を行い、良好な試験結果が得られたことから、敦賀機関区所属のD51形は全機に設置されることとなった。
- 尚、同様の目的による集煙装置の装備は他線区でも行われた。[注 20]
- 軸重可変機構
- 65号機のみが該当する。
- 当機は奈良機関区に所属していたが、当時の機関区は中在家信号場前後に加太越えの難所を擁す関西本線を担当していた。
- この路線は、重量級列車の機関車運用が厳しい路線で、とりわけ当形式は上り勾配での牽き出し時に重心移動で空転が発生しやすい状況にあった。
- それを解決すべく、第4動軸後部の主台枠に空気シリンダーを取り付け、第4動軸と従台車を結ぶ釣り合い梁(イコライザー)の支点位置を移動させて軸重バランスを変更するといった改造が施された。[注 21]
- この機構では、上り勾配や出発時における空転抑止に加え、撒砂量の減少により軌道保守の負担軽減にも資するという特徴を有した。さらには上り勾配区間や駅構内などの必要な区間のみを軌道強化すれば良いだけの話なので、運用線区に制約を加えるものでもなかった。[注 22]
- しかし、この方式は動力近代化の方向性が定まってからの改造のためか他車には波及しなかった。
- 65号機はその後、奈良機関区から吹田第一機関区へ転属。吹田操車場の入換機として運用され、長期にわたってこの仕様のままであった。
- 尚、この思想は後にDD51形やED76形などの中間台車にて採用されている。
- 自動給炭機
- 常磐線では、常磐炭田の石炭を常用していたが、この石炭は熱量が小さかったため、1仕業での投炭量が4~5トンを超過していた。[注 23]
- これを改善するため、1957年に水戸機関区と平機関区に配置されていた20両を対象に自動給炭機(メカニカルストーカー)を追加搭載した。[注 24]
- 尚、この20両は、常磐線が電化されてからは分散配置となった。
- ギースル・エジェクタ
- 外観上は煙突が前後に細長い長円形の扁平な形状となっている。
- 1963年3月に長野工場で349号機に装備・改造され、好成績だった[注 25]ことから、合計36両に装備された。[注 26]
- 秋田機関区や北海道の各機関区[注 27]所属車に対してこの改造が実施された。
- その他
- この他にも使用線区の事情に応じて様々な改造が施されている。
- 北海道や東北地方では寒冷地対策として、運転室特別整備工事と称する開放形運転台から乗務員扉の付いた密閉形運転台への改造が実施された。このうち北海道で活躍した54号機は、ナメクジ形ドームの砂箱前方を取り払い、その部分より前方を標準形と同様の形態に改装された。特異な改造だったため、オリジナルを尊重する愛好家からは敬遠されたものの、変形機としての人気があり、地元では「オバQ」の愛称で親しまれた。
- 長野では砂撒き管の増設が行われた。
運用[編集]
- 全国の幹線・亜幹線に普及していたため、至る所でその姿は見られた。[注 29]貨物用なので、主な運用は貨物列車であったが、中央本線[注 30]や函館本線の山線区間[注 31]などの急勾配区間の多い路線においては、急行をはじめとする優等列車を含む旅客列車の牽引に使われることも多かった。羽越本線などのような平坦路線でも旅客列車牽引にしばしば使われた。
北海道地区[編集]
- 小樽築港機関区と岩見沢機関区にて、北海道で最初に配置された。[注 32]
- 新得機関区所属のD51形は、根室本線の旧狩勝峠越えに使用されたが、集煙装置の設置は行われず、重油併燃装置も一部の機体のみに装備されていた。
- 追分機関区に配置された241号機は、1975年12月24日に国鉄最後の蒸気機関車牽引貨物列車となった夕張線の6788列車を牽引した。
東北地区[編集]
- 主に東北本線や奥羽本線、常磐線、羽越本線などの幹線区で多数使用。
- 東北本線では岩手県の十三本木峠(奥中山越え)でD51形などによる三重連での運転が見られた。[注 33]
- 奥羽本線では青森機関区、弘前機関区、大館機関区、東能代機関区、秋田機関区、横手機関区などに配置されていた。三重連での運転は秋田・青森県境の矢立峠越えで1971年の新線切り換えまで行われた。
関東地区[編集]
- 高崎第一機関区、宇都宮機関区、水戸機関区、大宮機関区、八王子機関区、田端機関区、新鶴見機関区、新小岩機関区など配置が多かった。
- 1970年3月に総武本線と越中島支線の貨物列車が、同年10月には高島線と八高線がそれぞれ無煙化された。このため、新小岩・高崎第一・八王子・新鶴見機関区の配置機は消滅。[注 34]
甲信越地区[編集]
- 山岳が多かったため、中央本線系統では客貨両用で使用されたが、線区によってはD50形も比較的遅くまで残存していた。
- 信越本線方面では長野機関区、直江津機関区、長岡機関区などの所属車が活躍した。[注 35]
- 中央東線方面では甲府機関区、上諏訪機関区、松本機関区に配置され、長野工場式集煙装置と重油併燃装置を装備していた。[注 36]
- その後1965年に中央東線が全線電化されるまで使用された。
- 中央西線方面では木曽福島機関区や中津川機関区に配置があり、上記とは異なり集煙装置は長い間装備されていなかった。[注 37]
- 1966年に名古屋駅~瑞浪駅間の電化、1968年に瑞浪駅~中津川駅間の電化を経て、1973年に中央西線・篠ノ井線が全線電化されたことにより、EF64形に順次置き換えられていった。
北陸・東海地区[編集]
- 北陸地区では北陸本線や高山本線の運用に充てられた。
- 北陸本線の運用においては敦賀機関区、今庄機関区、福井機関区、金沢機関区、富山機関区、糸魚川機関区などの所属車が活躍した。[注 38]
- 一方、高山本線では1959年より高山機関区に転入。[注 39]1969年に高山本線が無煙化されるまで使用された。
- 東海地区では中央西線名古屋口にて旅客機専門として運用された。
- 運用においては名古屋機関区や多治見機関区の所属車が活躍し、彼らは1949年頃から1966年まで使用されていた。
- また、1953年から1959年までには名古屋駅~長野駅間にて運転された準急「しなの」の牽引にも使用され、さらには名古屋駅~塩尻駅間の長距離運用にも投入された。
- 稲沢機関区にも配置され、運用は貨物列車であった。
- 当機関区所属車の中には本線運用を離脱後に入換用となった機体もある。[注 40]
関西地区[編集]
- 主に関西本線や山陰本線、城東貨物線、福知山線にて運用されていた。[注 41]
- これらの路線区において、吹田機関区や竜華機関区、奈良機関区、亀山機関区、福知山機関区などの所属車が活躍した。[注 42]
- また、1960年代には紀勢本線用として紀伊田辺機関区にも配置された。
- 余談だが、211号機[注 43]は戦後、廃車まで関西本線で使用された。
中国地区[編集]
- 主に山陽本線、呉線、山陰本線、伯備線、美祢線にて運用されていた。
- 戦前では山陽本線・呉線用として岡山機関区、糸崎機関区、広島機関区、小郡機関区に配置された。その後、呉線を受け持った糸崎機関区以外ではD52形の投入などが相まって他線区へ転出していった。
- 伯備線では、戦後の1954年に新見機関区に転入。足立駅発の石灰石貨物列車は回送機を含む三重連となっており、布原信号場では新見方面へ発車する三重連列車の有名な撮影地となった。1972年3月15日のダイヤ改正で三重連運転は廃止。その後1974年に新見機関区での配置が消滅した。
- 美祢線の投入は1959年からで、厚狭機関区に配置された。[注 44]
- 山口線では津和野機関区(後の山口線管理所)に1951年~1953年の短期間配置後に一旦転出。時が流れて1966年に再び配置され集煙装置を装備した状態で使用された。
四国地区[編集]
- 先述したとおり、土讃本線(現・土讃線)にしか運用に就いてない。
- この路線では、1949年に四国山地越え区間に投入され、累計して13両が高知機関区に配置された。土讃本線の線路等級は丙線だったため、当形式は本来入線することが不可能であった。しかし、GHQの
半ば強制的な命令で運用に回された。[注 45] - とはいえ、当時主力として走っていたC58形と比較して、牽引定数が増加する効果があったため、土讃本線での運用は諸刃の剣と言えた。
- その後、1952年頃より重油併燃装置を、1953年頃からは多度津工場式集煙装置を搭載。
- 投入されてから10年後の1959年にDF50形が土讃本線に投入されたため、1960年までに全機が四国を離れ、他区所へと転出した。
九州地区[編集]
- 戦前では大里機関区(現・門司機関区)と鳥栖機関区に配置された。戦後からしばらく経った1957年11月になると、門司機関区、鳥栖機関区、長崎機関区、南延岡機関区、熊本機関区、人吉機関区、出水機関区にまで広がり、合計81両が配置されていた。その後直方機関区などにも配置されている。
- 人吉機関区所属車は、33.0‰の急勾配が存在する肥薩線人吉駅~吉松駅間の矢岳越えに使用されていた4110形を置き換えるために導入。[注 46]
- 当初は煤煙対策としてデフレクターを外し、逆機運転を行っていたが、1952年より集煙装置と重油併燃装置が装備された。矢岳越えでは1972年3月に無煙される化まで継続使用された。
愛称について[編集]
- 当形式の愛称の1つとして「デゴイチ」が挙げられるが、別名として「デコイチ」がある。[注 47]
- この愛称に関して、本来は「デコイチ」だがSLブーム以降「デゴイチ」の方が一般的になった、という見解がある。
- ブルートレインの名付け親で、当時『鉄道ジャーナル』の編集長であった竹島紀元氏は、
『戦前の蒸気機関車のニックネームとして鉄道現場に存在したのは自分が知る限りではD50形の「デコマル」とD51形の「デコイチ」であるとし、自分で原稿を書く時には「デコイチ」に統一している』
- と述べている。また、以下の点も指摘している。[注 48]
- 戦前の鉄道趣味雑誌の『鉄道趣味』には「凸丸」(でこまる)「凸一」(でこいち)という表記もあったと記憶している。
- 「デコイチ」は「デコマル」の伝でつけられたと推察される。
- ただし鉄道の現場用語は、例えば「架線」を「ガセン」、「パンタグラフ」を「パンダ」と呼ぶように訛ることが多いため、逆に本来「デゴマル」だったものが「デコマル」に訛ったと考えることもできる。
脚注[編集]
- ↑ 日本国鉄式分類の表記。ホワイト式分類では2-8-2、アメリカ式分類ではミカド(Mikado)、マイク(Mike)、マッカーサー(MacArthur)。
- ↑ 恐ろしいことに、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録しており、この記録は2025年現在も更新されていない
- ↑ 200号機が該当。
- ↑ 498号機が該当。
- ↑ 「名機」や「代表機」とも呼ばれたほど。
- ↑ そのため、電気機関車も作ろうと思えば作れた。
- ↑ 後に登場する80系から新幹線車両の開発でも大きく反映され、システム工学の先駆けともいえる鉄道車両であったと言える。
- ↑ 苗穂工場、土崎工場(現・秋田総合車両センター)、郡山工場(現・郡山総合車両センター)、大宮工場(現・大宮総合車両センター)、長野工場(現・長野総合車両センター)、浜松工場、鷹取工場、小倉工場(現・小倉総合車両センター)が該当。
- ↑ 恵須取鉄道(2両・864号機と865号機)、胆振縦貫鉄道(5両・950号機~954号機)、日本窒素(1両・1161号機)が該当。尚、戦時買収や制海権失効から外地へと発送不可になったことから、8両全て鉄道省及び後身の国鉄に編入されている。
- ↑ 台湾総督府鉄道及び後進の台湾鉄路管理局が37両、ソビエト連邦サハリン州鉄道が30両、国連軍(後に大韓民国交通部鉄道局)が2両保有。尚、台湾鉄路管理局ではDT650形に改称させている。
- ↑ 後に国鉄内部でも用いられた。
- ↑ 戦後になると、標準形と同等の仕様となるように改修が行われた。
- ↑ 日立製は例外。
- ↑ これらが原因でボイラー爆発事故が起こっている。当該車両は1140号機。
- ↑ 実際C57形とC59形の追加生産が継続的に実施されており、1948年の時点でメーカー各社は大量の仕掛品在庫を保有していたほど。
- ↑ 残念ながら、地方線区においてはD61形の需要は少なく、羽幌線などで使用されたのみとなった。
- ↑ 当初は北陸本線福井駅~米原駅間と土讃本線で1951年に採用された。
- ↑ ボイラー上のドームの後ろ側に680Lのカマボコ形タンクを装備するケースと、炭水車(テンダー)の炭庫後方に1,500Lまたは3,000Lの直方体タンクを装備したケースがある。このうち3,000Lタンク装備車は東北地方に多い傾向にあった)。
- ↑ この区間では、乗務員は煙の流入に悩まされていた。
- ↑ 施行された工場は別々だったため、形態はまちまちであった。
- ↑ これにより、動軸重を通常の13.96tと15.46tに切り替えを可能にさせた。
- ↑ 単甲線規格対応の強力機を導入する場合とは異なる
- ↑ そのため、機関助士が2人乗務する必要があった。
- ↑ 112号機、121号機、123号機、248号機、313号機、381号機、389号機、411号機、503号機、551号機、645号機、647号機、672号機、695号機、821号機、914号機、931号機、946号機、1024号機、1068号機が該当。
- ↑ シンダの溜まりが多く、火の粉止めとしての効果も得られた。
- ↑ 117号機、120号機、167号機、226号機、232号機、241号機、252号機、276号機、285号機、293号機、308号機、315号機、328号機、343号機、345号機、349号機、357号機、371号機、391号機、413号機、457号機、492号機、509号機、539号機、570号機、605号機、711号機、725号機、733号機、742号機、842号機、952号機、953号機、1037号機、1042号機、1119号機が該当。
- ↑ 主に追分機関区
- ↑ 担当工場が別々だったため、形状はまちまち
- ↑ 四国では土讃本線(現・土讃線)限定だった。
- ↑ 中央東線・中央西線両方の区間
- ↑ 長万部駅~小樽駅間
- ↑ 小樽築港に6号機、岩見沢に48号機、126号機が新製配置された。
- ↑ 盛岡機関区、一戸機関区、尻内機関区の配置機が当区間の運用に使われた。
- ↑ このうち新鶴見機関区に所属していた791号機は高島線無煙化に伴い、1970年10月10・11・18日に東京駅~横浜港駅間で客車牽引のラストランに使われた。
- ↑ 長野機関区では篠ノ井線と共通運用だったため、集煙装置と重油併燃装置が装備されていた。一方、直江津機関区では重油併燃装置のみが装備されていた。
- ↑ 上諏訪機関区では各種試験を行う本社指定の機関区となっていた時期があった(ギースル・エジェクタや微粉炭燃焼装置などが挙げられる)。
- ↑ 1968年になってようやく長野工場式集煙装置が設置された。
- ↑ このうち、敦賀機関区では柳ヶ瀬越えや山中峠越えを擁した。また、戦後に集煙装置を開発・実用化され、各地の山岳路線区に普及した。この他にも当機関区では1号機&2号機が2年ほど配置されていた。尚、彼らの本格的な配置は稲沢機関区に転属した1938年以降となった。
- ↑ それまではC58形や9600形が所属・使用されていた。
- ↑ 一例として72号機が挙げられる。当機はデフレクターを外した状態で、稲沢操車場のハンプヤード押し上げ作業に使用された。
- ↑ このうち、関西本線では柘植駅~加太駅間にて加太越えがあった。このため、後補機を連結する重連の運転もあった。
- ↑ このうち、吹田機関区所属車はデフレクターを外してハンプヤード入換用に使用された機体もあり、他にもデフレクターなしのまま城東貨物線で貨物列車を牽引したこともあった。
- ↑ 国鉄鷹取工場における製造第1号機。
- ↑ 石灰石のピストン輸送がメインであった。
- ↑ それでもフルパワーで走らせたら物理的に路線が崩壊するため、最高速度を40km/hに制限されていた。
- ↑ 4110形は戦時中より使われていた。
- ↑ 現在は前者が多く見られるが、かつての各鉄道趣味誌には後者の表記が多かった。
- ↑ もっとも、「もともと現場のスラングのようなものなのでその発生や普及変遷などについて確実な状況はつかめませんが」と断った上で指摘した。
関連項目[編集]
- SLやまぐち号
- SLぐんま
- ナメクジ
- 国鉄C61形蒸気機関車 - 当形式のボイラーを流用して製造された。
- 国鉄D61形蒸気機関車 - 当形式から改良された国鉄最後の蒸気機関車。
- きかんしゃトーマス - 当形式をモデルにしたキャラクターが登場している。
- きかんしゃやえもん - 同上
- 島秀雄 - 設計に携わった。
- 黒姫山秀男 - SLブーム時代の大相撲力士で、ニックネームが「デゴイチ」であった。
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