国鉄D51形蒸気機関車
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国鉄D51形蒸気機関車とは、1936年から1945年にかけて製造された貨物用テンダー式蒸気機関車。
国鉄D51形蒸気機関車
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SLぐんま みなかみに充当される498号機。 | |
運用者 | 鉄道省→日本国有鉄道→東日本旅客鉄道、西日本旅客鉄道 |
製造所 | 川崎車輛、汽車製造、三菱重工業、日立製作所、日本車輌製造、 苗穂工場・土崎工場・郡山工場・大宮工場・長野工場・浜松工場・鷹取工場・小倉工場 |
製造年 | 1936年~1945年 |
製造数 | 1115両 |
引退 | 1975年(定期運用) |
車軸配置 | 1D1[注 1] |
軌間 | 1067mm |
全長 | 19730mm |
全高 | 3980mm |
機関車重量 | 78.37t |
総重量 | 125.77t |
動輪径 | 1400mm |
軸重 | 14.30t |
シリンダ数 | 単式2気筒 |
シリンダー(直径×行程) | 550mm×660mm |
弁装置 | ワルシャート式弁装置 |
- 主に貨物輸送のために用いられた蒸気機関車であり、
- 太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達している。[注 2]
- 2025年現在は山口線のSLやまぐち号[注 3]や主に上越線を拠点に運行されるのSLぐんま[注 4]の運用に使用されている。
- 現場の機関士にも操作性の良さから人気があり「デコイチ/デゴイチ」の愛称は、
- 日本の蒸気機関車の代名詞になっている。[注 5]
概要[編集]
- 1929年にアメリカで始まった世界恐慌は、多くの国々に影響を及ぼした。当時の日本も恐慌のあおりを受け、そこから昭和恐慌が始まった。
- このような経緯から、1930年代前半の日本における鉄道輸送量は低下していた。
- そのため、恐慌発生以前に計画されていた、D50形以降の貨物用新形機関車の設計・製造は見送られた。
- 時は流れ、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきた。
- それを皮切りに、新形の貨物用機関車が求められるようになった。
- 鉄道省は当時、電気機関車専用のチームがあり基礎研究も行われていた。[注 6]
- しかし、電化区間がまだ短かったため、まだしばらくは蒸気機関車で輸送する状態のままだった。
- そのような経緯から、1935年に開発を始め、1936年から製造・運用を始めた。
- 製造においては、C11形のボイラーで実用化された電気溶接技術を応用している。
- また、C53形の複雑な設計や工作不良を改善したD51形では部分ごとの標準化やユニット化がされ、整備や修理が容易になった。[注 7]
製造[編集]
- 川崎車輛、汽車製造、三菱重工業、日立製作所、日本車輌製造の5社と鉄道省が保有していた8つの工場[注 8]から、1115両製造された。このうち、鉄道省が発注したのは1107両であり、残りの8両は3社の企業が発注している。[注 9]
- また、外地専用向けに69両製造されている。[注 10]
製造期の相違[編集]
- 初期形
- 1号機~85号機・91号機~100号機が該当し、1936年~1937年の間に製造された。
- 外観上の特徴としては、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水加熱器をレール方向に置き、それらを覆う長いキセを持つことである。
- 後に登場する通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになった。鉄道ファンからは「ナメクジ」の通称で親しまれた。[注 11]
- このうち、22号機&23号機(いずれも現存せず)はドームがさらに運転台まで延びているため「全流線形形」、略して「全流形」、あるいは「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれた時期があった。尚、23号機はキャブ側面にタブレットキャッチャーを、ランボード上にナンバープレートを装着していた。
- 標準形
- 86号機~90号機・101号機~954号機が該当し、1937年~1943年の間に製造された。
恐らく多くの方々が想像するであろう区分であり、最も多く造られた区分である。- 初期形の重量配分を改善するため、1937年~1938年に浜松工場で製造された86号機~90号機において改良試作が行われ、
- などの設計変更が行われた。
- これにより初期形で問題とされた点は概ね改善され、101号機以降はこの仕様で新製することになった。
- 1943年度製造分以降では、デフレクターやナンバープレート、炭水車の石炭庫側板を木材で代用し、また煙室前部上方と煙室扉上部の丸みを省略するなど、
- 金属資源節約と各部工程の簡略化が順次推し進められ、準戦時形と呼ぶべき仕様に移行していった。[注 12]
- 戦時形
(1000番台) - 1001号機~1161号機が該当し、1944年~1945年の間に製造された。
- 1001から付番した関係上、955~1000は当形式において欠番となっている。
- 準戦時形やD52形と同様に、ランボードやデフレクターなどに木材などの代用材を多用、煙室前部上方と煙室扉上部の丸みの省略、ドームのカマボコ形化[注 13]
- などの簡素化に加え、台枠を省略した船底形炭水車に変更するなど、資材節約・工期短縮を図った設計になり、缶圧と動輪上重量の増大が行われて牽引重量増が図られた。
もはやここまできたら新形式である。 - 戦時設計となったため、粗悪な代用材料を使用し、本来はリベット2列が基本だったボイラーなどの重要接合部をリベット1列に簡略化、さらに溶接不良が少なからずあった。[注 14]このおかげで機関士、機関助士からの評価は酷いものであった。
- 終戦後は、代用材使用部品の正規部品への交換、X線検査で状態不良と判定されたボイラーの新製交換などにより性能の標準化が行われた。
- しかし、性能面に影響のなかった部位はそのまま存置され、カマボコ形ドームや炭水車の形状などに特徴が残った。ごく一部の機体は、煙室前面と煙室扉上部の欠き取りもそのまま残されていた。
改造機[編集]
C61形[編集]
詳細は「国鉄C61形蒸気機関車」を参照
- 戦後、軍需貨物輸送が事実上消滅したこと、食糧難に起因する買い出しから旅客が急激に増加した。これにより、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転。
- これにより、戦時中に量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰されることにつながった。
- また、旅客用機関車は1942年以降製造されておらず、1946年~1947年にC57形32両(170号機~201号機)とC59形73両(101号機~132号機・156号機~196号機)を製造して不足分を埋め、以降旅客用機関車の増備を積極的に行い、旅客需要に対応するよう計画されていた。[注 15]
- ところが、預金封鎖が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥ってしまう。
- そのため、先述した2形式で埋められなかった不足分を確保すべく、1948年GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、C57形の軸配置(2C1)+従輪1軸を組み合わせた重量増に対応させた軸配置(2C2)の走り装置と、当形式のボイラーを組み合わせた。
- その機関車は新形式C61形となり、33両製造された。
D61形[編集]
詳細は「国鉄D61形蒸気機関車」を参照
- 本線の無煙化により、大型の蒸気機関車は余剰となりつつあった。そこで、線路規格の低い地方線区で活用するため、1960年に6両の従台車を交換し軸配置1D2とする軸重軽減の改造が施され、新形式のD61形となった。[注 16]
機器類の装備[編集]
- 重油併燃装置
- 集煙装置
- 軸重可変機構
- 自動給炭機
- ギースル・エジェクタ
- その他
脚注[編集]
- ↑ 日本国鉄式分類の表記。ホワイト式分類では2-8-2、アメリカ式分類ではミカド(Mikado)、マイク(Mike)、マッカーサー(MacArthur)。
- ↑ 恐ろしいことに、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録しており、この記録は2025年現在も更新されていない
- ↑ 200号機が該当。
- ↑ 498号機が該当。
- ↑ 「名機」や「代表機」とも呼ばれたほど。
- ↑ そのため、電気機関車も作ろうと思えば作れた。
- ↑ 後に登場する80系から新幹線車両の開発でも大きく反映され、システム工学の先駆けともいえる鉄道車両であったと言える。
- ↑ 苗穂工場、土崎工場(現・秋田総合車両センター)、郡山工場(現・郡山総合車両センター)、大宮工場(現・大宮総合車両センター)、長野工場(現・長野総合車両センター)、浜松工場、鷹取工場、小倉工場(現・小倉総合車両センター)が該当。
- ↑ 恵須取鉄道(2両・864号機と865号機)、胆振縦貫鉄道(5両・950号機~954号機)、日本窒素(1両・1161号機)が該当。尚、戦時買収や制海権失効から外地へと発送不可になったことから、8両全て鉄道省及び後進の国鉄に編入されている。
- ↑ 台湾総督府鉄道及び後進の台湾鉄路管理局が37両、ソビエト連邦サハリン州鉄道が30両、国連軍(後に大韓民国交通部鉄道局)が2両保有。尚、台湾鉄路管理局ではDT650形に改称させている。
- ↑ 後に国鉄内部でも用いられた。
- ↑ 戦後になると、標準形と同等の仕様となるように改修が行われた。
- ↑ 日立製は例外。
- ↑ これらが原因でボイラー爆発事故が起こっている。当該車両は1140号機。
- ↑ 実際C57形とC59形の追加生産が継続的に実施されており、1948年の時点でメーカー各社は大量の仕掛品在庫を保有していたほど。
- ↑ 残念ながら、地方線区においてはD61形の需要は少なく、羽幌線などで使用されたのみとなった。
関連項目[編集]
- SLやまぐち号
- SLぐんま
- ナメクジ
- 国鉄C61形蒸気機関車 - 当形式のボイラーを流用して製造された。
- 国鉄D61形蒸気機関車 - 当形式から改良された国鉄最後の蒸気機関車。
- きかんしゃトーマス - 当形式をモデルにしたキャラクターが登場している。
- きかんしゃやえもん - 同上
- 島秀雄 - 設計に携わった。
- 黒姫山秀男 - SLブーム時代の大相撲力士で、ニックネームが「デゴイチ」であった。
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