国鉄157系電車
国鉄157系電車(こくてつひゃくごじゅうななけいでんしゃ)は、日本国有鉄道が昭和34年(1959年)に開発、製造した新性能電車である。
登場した背景[編集]
国際的観光地である日光市への交通は戦前から官営鉄道と東武鉄道との競争が激しく、鉄道省も様々な試みを行っていた。戦後も再び競争が激しくなり、日本国有鉄道はキハ10系気動車、さらにキハ55系気動車を登場させ、宇都宮駅方向転換のハンデの中、スピードアップをして競争した。さらに抜本的な競争力を高めるために日光線を直流電化し、東武鉄道の特別急行列車に対抗するために登場した形式である。国鉄22系電車として開発されたが、のちに157系に改称された。
概要[編集]
車内設備[編集]
特別急行列車の形式である151系電車と同じ室内設備で、座席は2等車はリクライニングシート(いわゆる特別2等車)であり、3等車はクロスシートであった。ただし、側窓は一段下降窓で水抜き設備が不十分だったため寿命を短くし、1976年に定期運用から退く要因となった。登場当時は非冷房だったが、後に冷房化改造された。
車体構造[編集]
軽量車体構造である。全面はやや傾斜し、中央部がやや折れた、80系電車を高運転台化したようなマスクである。前照灯は運転台すぐ下に左右に振り分けられた。
駆動機構[編集]
急勾配での日光線に運用のために歯車比を大きくした。また、勾配抑速ブレーキを備えている。
形式[編集]
現存[編集]
クロ157[編集]
天皇ご一家や皇族が、那須や須崎御用邸などでの静養等の移動に用いられる貴賓車であり、車体前面はクハ153初期型のような貫通型になっている。元は運転もできる車両だったが、運転台の故障や防犯上の面から当車両が先頭に立って運行する機会はなくなった。
東海顔の低運転台車はクロ157-1以外すべて国鉄時代に廃車されて保存車も残っていないため、JRに継承された車両および現存車はこの車両のみである。加えて、東海顔で前照灯が白熱電球の車両も末期まで残っていた国鉄広島のボロクハが簡易シールドビームに改造されて消滅しているため、保存車除けば現存車はクロ157-1のみである。
クーラーはAU12を4機搭載した。当初は157系電車に連結されたためクロ157を名乗っているが、157系普通・グリーン車廃車後は183系電車の牽引となり混結となった。このとき、車番は変えられていない。
後の転属で185系電車との混結となりJR発足後もJR東日本に車籍があるものの、稼動実績は平成前期を最後に途絶えた。田町電車区の廃止後は東京総合車両センターに転属しているが、それ以降姿を見せていない。
なお、牽引・推進運転が唯一可能とされた185系電車が消滅し、加えてJR発足後に製造の車両の駆動・制動機構への対応可否は不明のため、永遠のニートレインになることも考えられる。
廃形式[編集]
モハ156[編集]
クモハ157とユニットを組んでいた電動普通車。ビュフェの代わりに売店スペースを備えた。
クモハ157[編集]
サハ157[編集]
サロ157[編集]
運用[編集]
日光線・東北本線を運行する準急行列車、急行列車に用いられ、湘南・伊豆方面にも乗り入れた。新幹線開業直前には東海道本線の特急「ひびき」や新幹線開業後は東海道本線の特急「あまぎ」や吾妻線の特急「白根」に使用された。
その他[編集]
競合関係にあり、平成初期は東京都区部からの直行輸送は東武優勢だったJRと東武だったが、21世紀に入ると共通の敵のマイカー行楽に共倒れ状態となり、栗橋駅構内に連絡線を設けることで、2006年より東北本線と東武日光線に相互乗り入れする協調関係に転じている。
なお、鉄道ファンの作家宮脇俊三は、1987年の国鉄分民化時点で、いち早く両線の直通実現を旅行雑誌で提言していた。
ちなみに、国鉄も今市駅から野岩線を分岐させる構想があり、実現すれば東武の鬼怒川線に並行することになったが、鉄建公団の工事は全く進捗せず、工事が進捗した区間で発足した野岩鉄道会津鬼怒川線共々、東武に一本化した格好となった。
余談だが、定期運用終了まで17年は国鉄型では161系の3年に次ぐ短さで、廃車による消滅は国鉄特急車最短となる。また、クロ157を除き1両も保存されずに全車廃車解体されており、これは歴代の特急車でも他にE351系や251系などの数例しかない。
関連ページ[編集]
- JR東日本E655系電車 - 貴賓用
近い世代の車両[編集]
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