国鉄C59形蒸気機関車

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
国鉄C59形蒸気機関車
画像募集中.png
運用者鉄道省日本国有鉄道
製造所川崎車輛汽車製造日立製作所
製造年1941年~1947年
製造数173両
引退1970年
車軸配置2C1[注 1]
軌間1067mm
全長21360mm(戦前形)
21575mm(戦後形)
全高3980mm
機関車重量80.25t(戦前形)
79.75t(戦後形)
総重量137.15t(戦前形)
134.63t(戦後形)
動輪径1750mm
軸重16.17t(第2・3動輪、戦前形)
16.04t(第3動輪、戦後形)
シリンダ数単式2気筒
シリンダー(直径×行程)520mm×660mm
弁装置ワルシャート式弁装置

国鉄C59形蒸気機関車とは、1941年から1947年にかけて製造された幹線旅客用テンダー式蒸気機関車

戦後形はC62形よりも全長が僅かに長く、[注 2]当形式の改造車であるC60形と並び(戦後形に限ってみれば)日本最長の蒸気機関車である。

概要[編集]

1930年代末、東海道本線山陽本線の二大幹線の旅客列車(特に特急や急行などの優等列車)はC53形がメインとなって運行された。このC53形はシリンダ数を単式3気筒とすることで、より低重心化とスムーズな走行性能が得られた。しかし、ワルシャート式弁装置に加えてグレズリー式弁装置を備えていたため、機構が複雑であった。また、実設計において設計陣がこの機構を十分理解していなかったこともあり、整備検修においては致命的であった。このため、故障等による年間の平均休車日数が他形式と比較しても格段に多く、保守が容易かつC53形と同等以上の性能を備える新型機関車を求める声が高まっていた。
1930年以降、その後継となる新型旅客用機関車の設計を巡り、様々な検討が行われた。[注 3]
しかし、当時の日本国内において、強力機を運行するには最良の条件を備えていた東海道・山陽本線でさえ設備が貧弱だった。そのため、最終的にC59形として設計・製造されることになった。C53形の後継機となった当形式は、C51形以来の1750 mm径の動輪を備え、施設側が許容する上限の16.8tの動軸重の範囲で設計されることになった。[注 4]

製造[編集]

全車が鉄道省・国鉄向けとして、川崎車輛、汽車製造、日立製作所の3社から137両製造された。

製造期の相違[編集]

大きく2つに分けられる。

戦前形(と言うか戦時形)
1号機~100号機が該当し、1941年1943年の間に製造された。
実質戦時形であったことからか、これらにおいては設計・製造上の問題点があった。[注 5]
戦後形
101号機~132号機・156号機~196号機が該当し、1946年1947年の間に製造された。
製造された当時、緊縮財政下であったことから、133号機~155号機は欠番となっている。
全伝熱面積に占める過熱面積の割合が国鉄蒸機機関車の中では最も高かった。[注 6]

改造機[編集]

詳細は「国鉄C60形蒸気機関車」を参照

当形式は動軸重が平均16.2tであり、特甲線である東海道・山陽本線と一部の列車が山陽本線から直通していた呉線岩徳線以外には転用可能線区が少なかった。そこで、当形式のうち47両が亜幹線にも使えるよう従台車を2軸化し、動軸重を15tへ減らす改造を施し、C60形となった。改造車は乙線規格に従う東北本線常磐線奥羽本線(秋田駅青森駅間)、鹿児島本線(鳥栖駅以南)、長崎本線の各線に入線。引き続き特急・急行列車牽引にも使われた。

運用[編集]

1941年(昭和16年)のデビュー当初から特急の代表格となっており、C62形の登場まで特急の花形として活躍。C62形の登場後もお召列車に充当されることがあった。
当形式は主に東海道・山陽本線で運行されたが[注 7]、戦後になると、石炭不足への対策も兼ね1949年(昭和24年)より急ピッチで電化が進められたため[注 8]、本来の用途を追われた[注 9]
余剰機の一部は、1950年代以降東海道・山陽本線並みの線路規格へと軌道強化が進められた路線に転じた[注 10]
しかし、1950年代後半となると、山陽本線、東北本線、鹿児島本線にて順次電化が進み、1960年(昭和35年)頃から余剰廃車が出始めた。多くの車両がまだ十分に使える状態でありながら、1966年3月末までに廃車が進み、最終的に161号機、162号機、164号機の3両だけになった。
定期運用は最終的に糸崎機関区での呉線・山陽本線(糸崎駅広島駅間)での運用となり、主に急行「安芸」などの呉線経由の旅客列車を牽引していた[注 11]
旅客運用の他にも、瀬野駅八本松駅間(通称瀬野八)にて急行などの上り旅客列車、糸崎駅~西条駅間の一部下り貨物列車に対して補機運用に充当されることもあった[注 12]
呉線内を通る客車列車の大半を本形式が牽引していたが、1964年に山陽本線全線電化された際、C62形が糸崎機関区に転属。共通で運用されていたが、編成が長く換算重量も大きい夜行急行「音戸」などの重量列車の牽引では、C62形と比較してわずかに動軸重が大きく安浦駅安登駅間といった勾配区間で空転しにくい当形式が好まれた。そこで、1969年1月からはC62形と運用を分離し、「音戸」2往復の牽引を中心とした限定運用に充当され、1970年7月の呉線電化直前に運用変更で復帰するまで代走などを除き「安芸」牽引から一時的に外された。
その後、1970年(昭和45年)9月に呉線が全線電化。これにより残存していた3両が余剰となり、161号機・162号機は廃車。164号機は動態保存のため休車に(ただし、検査期限の都合もあり呉線電化直前から休車になった)。一時的な保管先の奈良機関区を経て保存先である梅小路機関区に転属された[注 13]

その他[編集]

1942年(昭和17年)10月14日の鉄道開業70周年記念として、28号機が描かれた5銭記念切手逓信省から発行された。これにより、当形式は国鉄の制式蒸気機関車として初めて切手に描かれた機関車となった。

脚注[編集]

  1. 日本国鉄式分類の表記。ホワイト式分類では4-6-2、アメリカ式分類ではパシフィック(Pacific)。
  2. C62形は全長21475mm。尚、戦前形の当形式は21360mmなので僅かに短い。
  3. 同時期、南アフリカ国鉄にて当時の看板列車であったユニオンリミテッド用に16E形を設計した。16E形は1830 mm径の大径動輪を備えていたことも影響して、これを上回る1850 mm径の動輪を備えた計画機(KC51B形)などが考案されていた。
  4. 尚、動軸重である16.8tは、特甲線規格で規定される許容軸重16.0 tに動軸のみ+5 %を加算した値。
  5. 従台車の荷重負担が過大であったこと、ボイラーの天井板が膨らむこと、長煙管が祟って熱効率が低かったことなどが挙げられる。
  6. 理論上ではあるが、過熱温度が国鉄制式機関車の中で最高。とはいえ実際に測定されたことはないが
  7. 戦中は軍部の反対に遭い、電化が実施できなかった。
  8. この他にもC62形の登場もあった。
  9. 1953年(昭和28年)7月には東京駅名古屋駅までの区間の電化が完了し(浜松駅~名古屋駅間が追加で電化された)、早くも余剰機が生じることになった。
  10. 鹿児島本線(1956年1965年門司港駅熊本駅間)、東北本線(1955年~1965年、上野駅一ノ関駅間、最終期には臨時運用で盛岡駅まで運用された実績を持つ)、常磐線(1961年1962年、上野駅~水戸駅間。ボイラー不良で運用離脱したC62形39号機の代機として運用された)が該当。尚、1964年には高松機関区に111号機が配置されたが、これは廃車前提の車両を機関区のボイラー代用とする扱いであったため、本線運用には使用されていない
  11. 車両運用の都合上、下り普通列車1本のみだが山陽本線経由の定期列車が残されていた。このほか、臨時列車等の牽引で山陽本線を走ることもあった。
  12. 静態保存されている164号機には、この運用の際に使用した走行開放用の開錠装置が前部連結器横に当時のまま残っている。尚、開錠装置の機構としては圧縮空気で動く小型シリンダにより、自動連結器の解放テコを運転台から遠隔動作させるといったものである。
  13. 保存先に転属までの間、暫定的に亀山機関区所属として紀勢本線参宮線での運転も検討されていたが、実現はしなかった。

関連項目[編集]