コンスタンティノス7世
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コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”(希:Κωνσταντίνος Ζʹ ὁ Πορφυρογέννητος)は、東ローマ帝国・マケドニア朝の4・6代目皇帝。なお、「ポルフュロゲネトス」は「緋色(=高貴な身分)の生まれ」を意味する渾名。
905年9月2日、レオーン6世と4番目の皇妃ゾエの間に生まれる。912年にレオーン6世が死去し、後を継いだ伯父のアレクサンドロスも1年足らずで病没したため、913年6月6日、コンスタンティノスが僅か8歳で東ローマ皇帝となった。コンスタンティノス7世の即位後間もなくシメオン1世率いるブルガリア軍が帝都を包囲し、東ローマ帝国は大混乱に陥った。919年には海軍司令官ロマノス・レカペノスがクーデタを起こし、宮廷の実権を掌握。ロマノスは娘へレネをコンスタンティノス7世に嫁がせて義父となり、翌920年12月7日に自らが正帝(ロマノス1世)に即位した。これによりコンスタンティノス7世は事実上帝位を追われてしまうが、945年1月27日、レカペノス家の内紛によりロマノス1世が廃位されたことで正帝の座に返り咲き、親政を開始した。コンスタンティノス7世はマケドニア朝ルネサンスを代表する文人皇帝で、「帝国統治論」「儀式の書」などの優れた著作を遺した。そのため、歴史家の間で彼の治世はビザンツ文化の黄金時代とされている。959年11月9日、息子のロマノス2世に後事を託して病没した。享年54。なお、コンスタンティノス7世在位中の957年にキエフ大公国の聖オリガがコンスタンティノープルを訪れ、ギリシア正教に改宗している。