ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(セルビア語:Социјалистичка Федеративна Република Југославија/Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija、クロアチア語: Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija、スロベニア語:Socialistična federativna republika Jugoslavija、マケドニア語:Социјалистичка Федеративна Република Југославија、アルバニア語:Republika Socialiste Federative e Jugosllavisë、略称:СФРЈ/SFRJ/RSFJ(以下SFRJ))とは1945年第二次世界大戦終結から1991年1990年代初頭の戦争まで存在した旧ユーゴスラビア国家である。現在の独立国であるセルビアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ北マケドニアスロベニアモンテネグロ及びコソボの領土を包含する社会主義の連邦国家であった。

国旗

この国家は、1945年8月10日ユーゴスラビア王国の後継国家として、ユーゴスラビア民主連邦(ДФЈ/DFJ)として成立した。DFJは1945年11月29日ユーゴスラビア連邦人民共和国(Федеративна Народна Република Југославија/Federativna Narodna Republika Jugoslavija、略称:ФНРЈ/FNRJ)に改称され、1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。SFRJの首都はベオグラードだった。SFRJは北西にイタリア、北にオーストリア及びハンガリー、北東にルーマニア、東にブルガリア、南にギリシャ及びアルバニアと国境を接していた。

SFRJは、他のヨーロッパの社会主義国家と異なり、ワルシャワ条約機構に加盟したことはなく、西側諸国政府との緊密な関係を維持してきた。SFRJは非同盟諸国の創設国の一つである、最も重要な国の一つだった。SFRYは、一党による代表制、計画経済、そして労働者自治制度を備えた自己管理型社会主義国家であった。

歴史[編集]

ユーゴスラビア連邦人民共和国(1945年-1963年)[編集]

11月29日に、ベオグラードで制憲議会第一回が開催され、「ユーゴスラビア連邦人民共和国の宣言に関する宣言」が採択された。この決定により、ユーゴスラビアは君主制を脱し、連邦共和国になった。

ユーゴスラビア連邦人民共和国は、ユーゴスラビア共産党が多数派を占め、戦前の議員とユーゴスラビア社会主義運動(AVNOJ)のメンバーで構成されていた議会の第一会議で社会主義国家として成立された。

戦後の初代大統領はイヴァン・リバル、首相はヨシップ・ブロズ・チトーであった。

ベオグラード裁判[編集]

ベオグラード裁判を参照。 ベオグラード裁判は、ドラゴリュブ・ミハイロヴィッチチェトニックユーゴスラビア亡命政府セルビア救国政府に所属する23名の被告人に対して、反逆罪及び戦争犯罪で起訴された裁判の名称である。この裁判は1946年6月10日から7月15日までベオグラードで行われた。

親ソ連時代[編集]

ユーゴスラビア政府は、冷戦初期の1946年8月9日と19日にヨシフ・スターリン率いるソ連と同盟を組み、ユーゴスラビア領空でアメリカ航空機2機を撃墜した。これは、冷戦中における西側諸国の航空機の最初の撃墜であり、アメリカにおけるチトーに対する不信感を引き起こし、ユーゴスラビアに対する軍事介入を求める声さえも生み出した。

1947年12月に新設されたコミンフォルムの最初の公式会議がベオグラードで開催された。この目的のために、現在のスラヴィヤホテルが市内中心地に建設された。

コミンフォルムの決議[編集]

ユーゴスラビアは、東側諸国におけるソ連の指導を拒否したため、1948年にコミンフォルムから追放された。ユーゴスラビア領土への野心を開いたアルバニアは、この追放によってコミンフォルムに加わった。

ユーゴスラビア共産党第5回大会は、第二次世界大戦と政権掌握後に開催されたユーゴスラビア共産党員における初の大会であった。大会では、ユーゴスラビアの「独立防衛」 において、ユーゴスラビア共産党中央委員会に政治的支援を与えた。この決定は全会一致で行われ、党の約束を確認した。大会はまた、ユーゴスラビア共産党のコミンフォルムに対する姿勢に関する決議を採択した。この決議では、コミンフォルムの決定は誤りかつ不当であると述べつつも、ユーゴスラビア共産党中央委員会は紛争克服のためにあらゆる努力を尽くすべきだと強調した。

最も重大な変化は、ユーゴスラビアの政策転換であった。スターリンからの圧力が強まる中、ユーゴスラビアは西側諸国に軍事支援を求めた。そして、外務大臣であったコチャ・ポポヴィッチは、1951年11月14日ロンドンで、アメリカイギリスフランスと軍事援助協定を締結した。

1952年11月2日から7日に開催されたユーゴスラビア共産党第6回大会で、党内で改革が行われた。そこで、新たな規約が採択され、それに従って党名がユーゴスラビア共産主義者同盟に改称された。党の基礎組織と下部指導部の独立性が強化された。とりわけ、スターリンによる世界の分割、侵略的政策、植民地政策の共産主義の修正は非難されたが、チトーによる修正は賞賛された。自治政府の導入は社会主義社会関係の発展における大きな転換点となった。

1953年憲法[編集]

1953年憲法を参照。

1953年1月13日1946年ユーゴスラビア連邦人民共和国憲法に対する主要な改正案として憲法法が採択され、ユーゴスラビアの憲法に自治の概念を導入することを目的としていた。これらの改正を含む1946年憲法は1963年のユーゴスラビア社会主義連邦共和国憲法が制定されるまで有効だった。

1953年に、チトーが大統領に就任した。

SFRJの国境におけるもっとも需要な変化は、1954年にオジモ条約によって隣接するトリエステ自由地域が廃止された際に起こった。515.5km2の面積を占めるユーゴスラビアB地域がSFRJの一部となった。B地域は既にユーゴスラビア軍によって占領されていた。

ソ連との和解[編集]

1953年3月5日スターリンの死後、コミンフォルムとユーゴスラビアの関係は緩和傾向にあった。この時点で、コミンフォルムはもはや以前の機能を果たしておらず、形骸化していた。

和解への一歩は、ソ連共産党中央委員会第一書記のニキータ・フルシチョフが、ソ連首相のニコライ・ブルガーニン、ソ連第一副首相のアナスタス・ミコヤンとともに、1955年5月26日にベオグラードを訪れた時に踏み出された。ソ連とユーゴスラビアの代表団はの階段はトプチデルの衛兵会館で行われた。

中ソ対立の結果、アルバニアは1961年に中国側についた。同年、ユーゴスラビアは非同盟諸国の創設国となり、インドネシアなどの国とともに、アメリカとの非対立政策を主張する国の一つとなった。ユーゴスラビアは他の東欧・中欧諸国と異なり、ソ連への依存路線を選ばず、ワルシャワ条約機構にもNATOにも加盟しなかったため、国際的に特殊な立場であった。こうした東西間のバランスが保たれていたからこそ、SFRJは世界で高い評価を受けていたのである。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(1963年-1992年)[編集]

1963年ユーゴスラビア社会主義連邦共和国憲法 1963年のユーゴスラビア憲法は、「自治憲章」として知られる。これは自治モデルが社会生活のあらゆる分野及びあらゆるレベルに適用されたためである。国名はユーゴスラビア連邦人民共和国からユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変更され、「勤労人民の力と自治に基づく、自発的に団結し平等な人民の連邦国家、社会主義民主主義共同体」と定義された。ユーゴスラビアの領土は「単一であり、社会主義共和国の領土から構成される」とされていた。

1963年憲法には、コソボ・メトヒヤ自治州が宣言された。ユーゴスラビアの連邦制において。セルビアの一部であった自治州は実質的に同じ立場にあったが、いくつか違いがあった。

1963年憲法により、連邦議会は、二院制から五院制に変更された。連邦議会に加え、経済評議会教育・文化評議会社会・保険評議会組織・政治評議会の4つの独立した評議会が導入された。

ブリユニ総会[編集]

ブリユニ総会は、1966年7月1日ブリユニ島のホテル「イストラ」で開催されたユーゴスラビア共産主義者同盟中央委員会第4回総会の名称である。この総会ではSFRJの元副首相であり、ユーゴスラビア共産主義者同盟中央委員会書記を務めたアレクサンダル・ランコヴィッチ・マルコ(ユーゴスラビアの三大重要人物の一人)が、国家及び党のあらゆる役職から解任された。

エドヴァルド・カルデリはユーゴスラビアの第二の男であり、ヨシップ・ブロズ・チトーの最も親しい側近として役割を担った。

連邦国家と共和国の関係を変革するプロセスが実際に開始され、連邦制の根本的な変革につながった。ユーゴスラビアは「近郊の連邦」として構築されつつあった。一枚岩的な社会・政治生活は「自治的な連邦主義」へと取って代わられた。

学生デモ・道路問題・1971年の改正・MASPOK・自由主義者の排除[編集]

ユーゴスラビアでの大規模な学生デモは、1968年に多くの国を圧巻したデモの波の一部であった。最も人気のあるスローガンは「赤いブルジョワを打倒せよ」、「我々は冷凍牛肉のように人々を輸出している」であった。

デモ7日目で、チトーは感情を爆発させ、夜遅くにテレビで学生たちに演説した。やや緊張した即興の演説で、「不正行為があった。」と述べ、「誰もかけがえのない存在などいない、私でさえも!?」と叫んだ。

さらにスロベニアでは、1969年に広範囲に及ぶ道路問題が発生した。道路建設と近代化のための資金の分配と割当をめぐってスロベニア指導部の不満が高まった。彼らは伝統的に高度に発展した地域デルスロベニアが連邦から受け取る資金が少なすぎるだけでなく、連邦は常に発展途上の地域を優先する蜂起を意味すると考えていた。ユーゴスラビアの連邦制はしばしば党幹部による形式的な手続きに過ぎないとの非難が初めて公になった。ユーゴスラビアの名の下に、共和国や州レベルでの多くの取り組みがタブー視され、事前に却下され、彼らにとって不適切で、とりわけ利益がなく費用がかかりすぎる政策や決定がユーゴスラビアの名の下に主にスロベニアに押し付けられることが多かったと主張された。

1971年6月30日、憲法改正XX-XLIIが採択された。連邦の制度に変更が導入され、共和国大統領に加えて、SFRJ大統領府が国家元首及び立法及び政治主導権の担い手として設立された。ヨシップ・ブロズ・チトーは共和国大統領であり、SFRJ大統領府議長だった。SIVと連邦行政機関の位置づけと役割は大幅に変更された。連邦は機関は平等に基づいて構成された。ユーゴスラビア人民軍に加えて、SFRJの武装勢力として、ユーゴスラビア連邦軍が導入された。これは、後にユーゴスラビア崩壊時に広範囲にわたる影響を及ぼすことになる。

1971年の憲法改正の支持はと反対派の対立が激化した際に、改革は党の思想的・政治的独占を脅かすという評価に基づき、また国外からの圧力(ハンガリー及びブルガリアへのソ連の軍事力行使)もあって、党は党内保守派に立ち、クロアチア社会主義共和国における民族政治運動(クロアチアの春)の鎮圧を支持した。クロアチア指導部の対立後、セルビア、スロベニア、マケドニアの自由主義派政治家は交代した。

1974年ユーゴスラビア憲法[編集]

1974年新たな連邦憲法が採択され、共和国及び州にさらなる自治権が与えられ、クロアチアの春の要求が実質的に満たされた。共和国にはより多くの権利が与えられ、連邦国家の権限は縮小された。憲法の条項の一つは、SFRJの領土保全を強調していました。

1974年5月16日、チトーは終身大統領に就任すると宣言し、5月27日ユーゴスラビア共産主義者同盟第10回大会ではユーゴスラビア共産主義者同盟の終身書記長にも終身すると宣言した。

チトーの死後[編集]

1980年チトーの死後、ユーゴスラビア諸国間で緊張が高まった。

1980年から1991年まで、ユーゴスラビアの権力は集団的であり、毎年、ユーゴスラビアの6共和国のいずれかの大統領から指導者に選出された。

1981年のコソボ社会主義自治州における騒乱は、1981年3月に始まった大規模な抗議活動で、コソボのアルバニア人は小蕎が第7の共和国に昇格することを求めた。

パレード851985年5月9日に行われた戦勝記念日の祝典につけられた名称で、対ファシズム戦勝40周年を記念して開催された。中心的な式典はベオグラードの連邦議会前で開催された。この機会にSFRJ大統領のヴェセリン・ジュラノヴィッチを筆頭に最高位の政府高官の前で軍の閲兵式が行われた。このパレードではユーゴスラビア人民軍がベオグラード街頭で行った最後の軍事パレードとなった。

セルビア科学芸術アカデミー覚書は、セルビア科学芸術アカデミーが1985年から1986年にかけてセルビア知識人の戦略的計画として起草した未完成の文書である。これは1986年9月24日と25日に日刊紙「ヴェチェルニェ・ノヴォスティ」に2回に分けて掲載された。

反官僚革命[編集]

反官僚革命は、1987年セルビア共産主義者同盟中央委員会第8回大会で始まり、1989年初頭に終わったセルビアにおける期間である。

1989年8月8日に、ベオグラードでSFRJ議会は1974年憲法の改正を採択し、SFRJに複数政党制を導入することにした。

SFRJの崩壊[編集]

ユーゴスラビア紛争を参照。

1991年から1992年にかけて、SFRJは外国の支援を受けて武力分離により崩壊した。ユーゴスラビアの場合、領土保全の原則と国際的に承認された国境は尊重されなかった。国際法に反し、法的に確定・画定されたことのない共和国の国境が主権国家の国境となった。民族の自決権は連邦構成員と結びついており、連邦構成員がその担い手である。

スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの分離[編集]

1991年6月、スロベニアクロアチアは、他の共和国との関係を断ち切り、独立国家になることを決定した。これが十日間戦争につながった。クロアチアのセルビア人はSFRJから離れることを望まなかったので、クロアチア警察と準軍事組織はセルビア人をSFRJから離脱させる目的でセルビア人地域を攻撃し、これがクロアチア戦争につながり、約2万人以上が死亡し、数十万のセルビア人が追放された。

マケドニアは1991年9月に独立を問う国民投票を実施し、SFRJからの離脱を開始したが、これは戦争にはつながらずむしろ平和的に独立できた。

最終的にボスニア・ヘルツェゴビナでは、1992年3月に大多数がSFRJからの離脱を支持したが、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人が離脱に反対したため、ボスニア・ヘルツェゴビナで大規模な戦争が発生し、約10万人が死亡した。1995年11月21日デイトン合意で終結した。

ユーゴスラビア連邦共和国の成立[編集]

ユーゴスラビア連邦共和国を参照。

スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの独立が国際的に承認された時点で、セルビアモンテネグロは共同国家として存続することを決定した。セルビアとモンテネグロの代表が新しいユーゴスラビア連邦共和国憲法を起草し、残りのユーゴスラビア連邦議会連邦評議会の議員が憲法を採択し、1992年4月27日ユーゴスラビア連邦共和国が宣言された。この国家は国民の平等と加盟共和国の平等に基づく主権連邦国家と定義され、セルビア共和国モンテネグロ共和国で構成されていた。

ユーゴスラビア連邦共和国は2003年に改革され、セルビア・モンテネグロ連邦に改称されたが、2006年にモンテネグロの独立に関する国民投票により国家は消滅した。

地理[編集]

SFRJかの大部分はバルカン半島に位置している。地理・気候的に、一部は地中海沿岸国にも分類される。周辺諸国との国境線の総延長は約2969km、陸上国境の長さは約2173kmである。近隣諸国との国境線の総延長は、ルーマニアが557km、ブルガリアが536km、ギリシャが262km、アルバニアが465km、ハンガリーが623km、オーストリアが324km、イタリアが202kmである。

アルバニアを除くアドリア海東岸全体はSFRJ領で、全長は約2092kmであり、多数の島々がある。SFRJを流れる最大の河川はドナウ川で全長2857kmのうち359kmにわたってSFRJ領を流れていた。また、最長の河川はサヴァ川で全長約945kmにわたって流れていた。

ユーゴスラビア北東部(現在のヴォイヴォディナ近辺)は比較的平坦地系だが、残りの地域の大部分は丘陵地帯だった。SFRJ最高峰のトリグラウ山(現スロベニア領)は標高2864kmであった。

構成国[編集]

SFRJは6つの共和国と2つの自治州で構成された。首都はベオグラードである。

関連項目[編集]