ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語: Социјалистичка Федеративна Република Југославија, 社会主義連邦共和国ユーゴスラビア)は、第二次世界大戦後の1945年11月29日に成立し、1992年4月27日に解体された社会主義国家である。バルカン半島に位置し、その領土は現在のスロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアコソボを含む)、モンテネグロ北マケドニアに相当する。

概要[編集]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、ヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビア人民解放軍枢軸国に対する抵抗運動の中で勢力を拡大し、戦後に樹立された。当初はユーゴスラビア連邦人民共和国という国号であったが、1963年に現行の国号に改称された。

その特徴は、東側諸国における一般的なソビエト連邦型の社会主義とは一線を画した、独自の「自主管理社会主義」を追求した点にある。これは、生産手段の社会的所有と労働者による企業の自主管理を基本理念とし、比較的緩やかな経済統制と、非同盟主義外交を展開したことで知られる。

しかし、チトーの死後、連邦を構成する各共和国間の民族主義の高まり、経済格差の拡大、政治的対立が深刻化。1990年代初頭には東欧革命の影響も受け、スロベニア紛争クロアチア独立戦争ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争といった一連のユーゴスラビア紛争を経て、最終的に連邦は解体された。

歴史[編集]

建国と自主管理社会主義の確立[編集]

第二次世界大戦中、パルチザンによる激しい抵抗運動を展開したヨシップ・ブロズ・チトーは、戦後、国内で圧倒的な支持を得てユーゴスラビア共産党を率い、ユーゴスラビア民主連邦を樹立した。1945年11月29日、王制が廃止され、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立した。

当初はソビエト連邦との連携を強め、コミンフォルムの一員でもあったが、1948年にチトーとスターリンの間で意見対立が生じ、ユーゴスラビアはコミンフォルムから追放される事態となった(チトー・スターリン決裂)。この出来事を機に、ユーゴスラビアはソ連型社会主義とは異なる独自の道、すなわち「自主管理社会主義」の構築へと舵を切る。

自主管理社会主義は、労働者集団による企業の自主管理を重視し、市場原理を部分的に導入するなど、中央計画経済に代わる経済システムとして注目された。外交面では、東西冷戦の枠組みに囚われない非同盟主義を掲げ、インドネルーエジプトナセルらと共に非同盟運動を主導した。

チトー時代の安定と多様性[編集]

チトーの強力なリーダーシップの下、ユーゴスラビアは比較的安定した発展を遂げた。各共和国には一定の自治権が与えられ、民族的・文化的多様性が尊重された。しかし、一方で連邦内の経済格差は解消されず、スロベニアクロアチアといった先進共和国と、セルビアボスニア・ヘルツェゴビナモンテネグロマケドニアコソボといった後進地域との間で不均衡が生じた。

チトーは、連邦内の民族間の均衡を保ち、セルビア人の優位性を抑制する政策をとった。例えば、1974年憲法では各共和国の権限が強化され、コソボヴォイヴォディナはセルビア共和国内の自治州でありながら、実質的に共和国に準ずる地位を与えられた。

解体への道[編集]

1980年5月4日、建国の父であるチトーが死去すると、連邦内の求心力が急速に低下し始める。経済状況の悪化に加え、各共和国における民族主義が高まり、連邦の維持が困難になっていった。

1980年代後半には、セルビアスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア人のナショナリズムを煽り、コソボの自治権剥奪など強硬な政策を打ち出したことで、他の共和国との対立が激化した。

1990年、各共和国で複数政党制による選挙が実施され、スロベニアクロアチアでは民族主義政党が勝利した。翌1991年スロベニアクロアチアが相次いで独立を宣言すると、ユーゴスラビア人民軍が介入し、スロベニア紛争クロアチア独立戦争が勃発。

1992年ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。これにより、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は事実上崩壊し、1992年4月27日には、セルビアモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国が成立し、旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体は完了した。

政治[編集]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、ユーゴスラビア共産主義者同盟(旧ユーゴスラビア共産党)による一党独裁制であった。しかし、ソ連のような厳格な全体主義とは異なり、比較的自由な言論や移動が許容された。

国家元首は大統領評議会議長が務めたが、チトー時代は彼自身が終身大統領として絶大な権力を握っていた。1974年憲法では、各共和国と自治州からの代表で構成される集団指導体制が導入され、チトーの死後の政治的安定を目指したが、機能不全に陥った。

連邦議会は、連邦評議会と共和国・州評議会の二院制であった。連邦評議会は公民の代表、共和国・州評議会は各共和国・自治州の代表で構成された。

経済[編集]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の経済は、「自主管理社会主義」を基盤としていた。これは、生産手段が社会的所有とされ、企業は労働者評議会によって自主的に管理されるというシステムである。これにより、企業は計画経済下の中央政府の指示だけでなく、市場の動向にもある程度対応することができた。

重工業を中心に発展したが、サービス業や観光業も重要な位置を占めた。特にアドリア海沿岸のリゾート地は、西欧からの観光客に人気があった。

しかし、経済は地域間で大きな格差を抱えていた。スロベニアクロアチアは西ヨーロッパに近いこともあり、比較的高い経済水準を誇った一方、マケドニアコソボボスニア・ヘルツェゴビナなどは後進地域とされていた。この経済格差は、連邦解体の要因の一つとなった。

1980年代に入ると、石油ショックや国際経済情勢の変化により、ユーゴスラビア経済は深刻な不況に陥った。多額の対外債務を抱え、インフレが進行し、国民生活に大きな影響を与えた。

民族と文化[編集]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、多様な民族と文化が共存する多民族国家であった。主要な民族は、セルビア人クロアチア人ボスニア人(ムスリム人)、スロベニア人マケドニア人モンテネグロ人などである。公用語はセルビア・クロアチア語であったが、スロベニア語マケドニア語も地域的に公用語として認められていた。

チトー政権下では、「兄弟愛と統一」のスローガンの下、民族間の平等と共存が強調された。しかし、潜在的な民族間の対立は常に存在し、チトーの死後に顕在化した。

宗教は、正教会(セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)、カトリック教会(クロアチア人、スロベニア人)、イスラム教(ボスニア人、アルバニア人)など、多様であった。宗教活動は社会主義国家の下で制限されたが、完全に禁止されたわけではなかった。

構成共和国と自治州[編集]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、以下の6つの社会主義共和国と2つの社会主義自治州で構成されていた。

豆知識[編集]

  • ユーゴスラビアとは「南スラヴ人の国」という意味である。
  • チトーは第二次世界大戦中のパルチザン指導者として、連合国側からも枢軸国側からも捕獲の対象とされたが、最後まで捕まらなかった。
  • ユーゴスラビアは、社会主義国でありながら、国民が比較的自由に海外旅行をすることができた。
  • ユーゴスラビアの通貨であるディナールは、連邦解体前に極度のハイパーインフレに見舞われた。

関連項目[編集]

参考書籍[編集]