ユーゴスラビア民主連邦
ユーゴスラビア民主連邦(セルビア語:Демократска Федеративна Југославија/Demokratcka Federativna Jugoslavija、クロアチア語:Demokratska Federativna Jugoslavija、スロベニア語:Demokratična federativna Jugoslavija、マケドニア語:Демократска Федеративна Југославија、略称:ДФJ/DFJ)とは君主制(正式には廃止されていなかったユーゴスラビア王国)と人民共和国(正式に設立されていなかったユーゴスラビア社会主義連邦共和国)の間の過渡期を代表する国家であった。DFユーゴスラビアとも。

ユーゴスラビアの制度には、1945年3月7日に結成された3人の理事から構成される摂政を含むユーゴスラビア民主連邦共和国臨時政府とユーゴスラビア王国国民議会の前回の招集からの議員によって補充されていたユーゴスラビア人民解放ファシスト評議会(AVNOJ)の転換を通して1945年8月10日に設立されたユーゴスラビア王国国民議会が含まれていた。
国名[編集]
ユーゴスラビア民主連邦という名称が正式に使用されたのは1945年8月10日であったが、これには2つの段階があった。
- 1943年11月29日から1945年3月7日までユーゴスラビア亡命政府(王国政府)とユーゴスラビア解放国家委員会(NKOJ)(いずれも自らを唯一の合法政府とみなしていた)が並存していた。王国政府と解放国家委員会2つのユーゴスラビア政府が存在した期間で、NKOJはDFJを国名として使用していた。
- 1945年3月7日から11月29日まで、共同暫定政府が存在した過渡期で、両陣営は国名をユーゴスラビア連邦共和国と承認したため、この期間におけるユーゴスラビア連邦共和国は王国の最終段階であり、社会主義ユーゴスラビアの初期段階であったとみなされる。ユーゴスラビア連邦人民共和国は1945年11月29日に宣言され、同時に共和国が宣言され、すなわち君主制が廃止された。
背景[編集]
1943年11月29日に開催されたユーゴスラビア共産党第2回会議の決定は、第二次世界大戦後、ユーゴスラビア共産党の指導の下、ユーゴスラビア諸民族の連邦国家樹立の原則を定めた。ユーゴスラビアは、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、スロベニア、セルビア、クロアチア、モンテネグロの6つの人民共和国からなる連邦制となることが想定された。この国家は、一部の領土拡大(イストリア、プリモルスカ)を伴い、ユーゴスラビア王国に法的に取って代わるものとなった。