ユーゴスラビア王国
ユーゴスラビア王国(セルビア語:Краљевина Југославија/Kraljevina Jugoslavija、クロアチア語:Kraljevina Jugoslavija、スロベニア語:Kraljevina Jugoslavija、マケドニア語:Кралство Југославија)とは、かつて南東ヨーロッパに存在した国家であり、バルカン半島西部の大部分、パンノニア平原の一部を占めていた君主制国家である。

この王国は1918年12月1日から1945年11月29日まで存在した。1918年から1929年まではセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国という名称を用いていたが、アレクサンダル1世によって正式名称が、「ユーゴスラビア王国」に改称された。この王国は、現在のセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、北マケドニア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニアの大部分の領土を占めていた。
歴史[編集]
1918年に、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(旧オーストリア=ハンガリー帝国領に誕生し、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニアの大部分を含有していた。)とバナト地方、バチュカ地方、バラニャ地方(オーストリア=ハンガリー帝国におけるハンガリー王国の一部)が、独立したセルビア王国と合併して、暫定王国が成立した。同年に、モンテネグロ王国もセルビアとの統一を宣言し、ヴォルダル・マケドニアは依然としてセルビア領だった。
国家元首はカラジョルジェヴィッチ朝で、この王朝は1903年の5月クーデターからペータル1世の下でセルビア王国を統治していた。ペータル1世はユーゴスラビア初代国王となった。1921年に死去すると、後継はアレクサンダル1世が継いだ。彼は「統一者アレクサンダル」と呼ばれ、1929年に「ユーゴスラビア王国」に国名を変更した。1934年に、フランス訪問中にマルセイユで内マケドニア革命組織のメンバーのヴラド・チェルノゼムスキに暗殺された。王位は11歳の息子のペータル2世に継承された。アレクサンダル1世の従弟のパヴレ・カラジョルジェヴィッチはペータル2世が成人する1941年まで摂政として統治した。同年、枢軸国による侵攻を受け、王室はイギリスのロンドンに亡命した。
1941年4月にユーゴスラビア王国はドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアの4カ国に占領・分割された。ロンドンに亡命政府が樹立され、その後、連合国全土に承認された。英国首相のウィンストン・チャーチルの圧力を受け、ユーゴスラビア民主連邦がユーゴスラビアの正当な政府として承認された。11月2日にイヴァン・シュバシッチ(王国代表)とヨシップ・ブロズ・チトー(パルチザン代表)の間で、チトー=シュバシッチ協定が締結され、ユーゴスラビア王国は消滅した。
民族[編集]
1929年までに、この国の正式な民族はセルビア人、クロアチア人、スロベニア人であったが、その年にアレクサンダル1世の決定によりそれらは全ての1つの国家、つまりユーゴスラニア人に統合された。