イタリア王国
イタリア王国(Regno d'Italia)とはかつてイタリアを中心に存在した国家である。サヴォイア家が統治する立憲君主制国家であった。
歴史[編集]
1859年にイタリア統一派のサルデーニャ王国がイタリアの各国にフランス軍との協力でロンバルディア王国に侵攻しイタリア統一戦争が始まり、1860年にジュゼッペ・ガリバルディが両シチリア王国を占領し統一に成功、1861年3月17日にイタリア王国が建国された。初代国王はサルデーニャ国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位した。
しかし、この段階ではローマ教皇領、ヴェネツィアなどの領土は王国に含まれていなかった。そこでヴェネツィアを併合するために1866年の普墺戦争でプロイセン王国を支援しオーストリア帝国からヴェネツィア併合を達成する。そしてフランスの支援を受けていたローマ教皇領について、1870年に普仏戦争でフランスがプロイセンに敗れたことでローマに侵攻し、併合した。これにより現在のイタリアの国土の大体が形成され1871年にローマが正式にイタリアの首都となった。
第一次世界大戦では三国同盟で最初はドイツ側で参戦しようとしたものの、オーストリア=ハンガリー帝国領のトリエステ、南チロルの未回収のイタリアの領土奪還の意識が強く、イギリスとの密約(ロンドン秘密条約)を結び協商国側で参戦した。終戦後はオーストリアから南チロル、トリエステを割譲させた。
しかし、未回収のイタリアの獲得に成功したものの戦勝国にしてはあらゆる要求が満たされないことから国民の不満が広まり、ファシズムを掲げるベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が台頭した。1922年にはクーデターを起こし、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニを首相に任命した。その後1925年にはファシスト党は独裁体制を確立した。ただし王政は維持され、世にも珍しい王政とファシズムが並行した国家となった。
1935年には、かつて植民地化しようとしたエチオピア帝国に侵攻・併合し、国際的な非難を浴びることになった。また、ドイツによるオーストリアを併合、そしてミュンヘン会談におけるチェコスロバキア解体をしたように、1939年にはアルバニア王国を併合した。
第二次世界大戦が始まると、当初イタリア王国は中立を宣言した。しかし、新しい戦法の電撃戦によるドイツの数々の勝利を見て、ムッソリーニはイギリスとフランスに宣戦布告を行い、降伏間近のフランスに侵攻を開始した。この時に日独伊三国同盟を締結する。そして、イタリア領リビアからイギリス領エジプトに侵攻を開始、そして、アルバニアからもギリシャに侵攻を開始した。しかし戦争の準備不足でいずれの戦線も押し返されドイツの支援を要請するようになる。そしてドイツの力を借りてギリシャの一部を統治下に置いた。アフリカ戦線では砂漠という地形上から独伊軍と英軍はそれぞれ前進後退を繰り返した。
1941年にドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まると、イタリア王国は援軍を派遣した。ソ連への快進撃を続ける中、アフリカ戦線では押し返されており、独伊軍ともに撤退、連合国がシチリア島に上陸すると1943年にムッソリーニは失脚し幽閉された。ピエトロ・バドリオが首相に就任し、イタリアは連合国との交渉で連合国側に寝返ることになる。しかし、イタリアを見捨てたくなかったヒトラーは、軍をローマに侵攻させムッソリーニを救出し、北部に傀儡政権のイタリア社会共和国を樹立させた。これによりイタリアは内戦状態となる。しかし、連合国側が圧倒的に優勢で北部イタリアに迫り、1945年にムッソリーニがパルチザンによって処刑されイタリアは再び1つになった。
終戦後、ファシスト政権との協力をしたなどして、1946年に王政は国民投票によって廃止されヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らサヴォイア家はエジプトに亡命した。その後現在に至るイタリア共和国が成立した。