長嶋茂雄
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我が巨人軍は永久に不滅です!
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市) |
生年月日 | 1936年2月20日 |
没年月日 | 2025年6月3日(満89歳没) |
身長 体重 |
178 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1958年 |
初出場 | 1958年4月5日 |
最終出場 | 1974年10月14日 |
![]() | 長嶋茂雄 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) 殿堂表彰者 | |
選出年 | 1988年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
長嶋 茂雄 (ながしま しげお、1936年2月20日 - 2025年6月3日) は、千葉県佐倉市出身の元プロ野球選手 (内野手) 、元プロ野球監督、読売ジャイアンツ終身名誉監督。血液型B型。
親族[編集]
元プロ野球選手で野球解説者・タレントの長嶋一茂は長男。スポーツキャスターで元テレビ朝日社員の長島三奈は次女。
経歴[編集]
- 1936年(昭和11年)2月20日、千葉県印旛郡臼井町[注 1]で出生。
- 千葉県立佐倉第一高等学校に進学し、3年次の高校野球南関東大会で特大ホームランを打って注目される[注 2]。高校卒業後、立教大学に進学。東京六大学野球で当時のホームランの新記録を樹立。
- 大学を卒業後[注 3]、1958年(昭和33年)に読売ジャイアンツに入団。
現役時代[編集]
- 王貞治とのON砲で、当時の川上哲治監督率いる巨人の9年連続日本一に貢献。
- 1974年10月14日に現役を引退、その引退セレモニーで発した 「我が巨人軍は永久に不滅です!」 は後世まで語り継がれるほどの名言になった。
- また、長嶋の背番号 「3」 は巨人の永久欠番になった。
引退後、初監督時代[編集]
- 翌年、1975年から川上哲治に代わって巨人の監督に就任し、初年度は最下位に終わってしまう。が、1976年シーズンにはリーグ優勝に導く。
- この頃は背番号は 「90」 だった。
- 1980年のシーズン終了後、監督を解任される。その際、当時 「ズームイン!!朝!」 (日テレ系) で司会を務めていた徳光和夫は熱狂的な巨人ファンかつ長嶋ファンだったこともあり、この解任騒動では 「読売新聞の購読をやめます!」 と発言するほどヒートアップ。その後全国的な読売新聞の不買運動につながったことは有名な話である。
浪人後、監督再就任[編集]
- 1988年には野球殿堂入りを果たす。
- 監督解任後、のべ「13浪」。スポーツタレントとして活躍。途中西武など他球団の監督就任が噂されたこともあった。
- 1993年、13年の時を経て、再び監督に就任。背番号は 「33」 になった。
- 2000年からは背番号は現役時代と同じ 「3」 になり[注 4]、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。この年の日本シリーズでは王貞治監督率いるダイエーと対決、「ON対決」 として注目された。
- 2001年に監督を退任。9月28日に球団から終身名誉監督の肩書が授与され、球団専務取締役への就任が発表された。
巨人監督退任後[編集]
- 2002年(平成14年)12月にアテネ五輪日本代表監督に就任。しかし、2004年3月4日に脳梗塞で倒れ入院。一命を取りとめたが、右半身麻痺の状態が続き、現場指揮を断念した。
- 2013年5月5日には松井秀喜と共に国民栄誉賞を受賞。
- 2025年6月3日の午前6時39分に肺炎のため都内の病院で死去。同月8日に次女・三奈を喪主として告別式を実施。
脚注[編集]
- 注
- 出典