平野 (大阪市)

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杭全神社の中門。
平野の政治や祭事の中心でありつづけた杭全神社

平野(ひらの)は、かつて摂津国住吉郡(現在の大阪府大阪市平野区)に存在した都市。都市としての独立性が薄れた江戸時代中期以降は平野郷とも呼ばれた。

広義の平野は平野区全体を指すが、ふつうは明治時代に存在した平野郷町に相当する地域を指す。

概要[編集]

平野郷は平安時代に、坂上田村麻呂の息子である坂上広野麻呂が入植したことに始まる。その後平等院の荘園として発展し、中世には大念仏寺杭全神社など複数の寺社を中核とする寺内町として栄え、最終的にはと同規模の自治都市へと成長した。江戸時代には、徳川家康が篤い信頼をおいた末吉孫左衛門による朱印船貿易で大きく発展した。その後は堺に比べ低い扱いを受けたことから衰退を見せたものの、商業・農業・教育の各面で繁栄し、大和川付け替えによる木綿産業の隆盛もあって、商業地として繁栄した。

明治時代以降でも大日本紡績の大規模紡績工場が置かれたが、大大阪時代の到来による大阪市への併合や紡績業衰退により宅地化がなされ、南海平野線の廃止なども相まって、独立した一つの都市としては扱われなくなった。しかし、依然として平野区は大阪市において人口が最も多い行政区である。

江戸時代まで栄華を誇ったものの衰退などにより最終的には大阪に吸収され、その知名度は低いことから、消えた大都市であるといえる。

旧市街地[編集]

平野は、戦国時代での大坂の陣による全焼を経て碁盤目状の区画割が行われ、それぞれに通りの名前がつけられた。また戦国時代から、平野郷の本体である「本郷七町」とその植民地的な村落である「散郷四村」とを区別していた。

本郷・散郷・七名家[編集]

本郷七町(ほんごうしちちょう)はそれぞれ平野七名家(ひらのしちみょうけ)による支配を受けており、江戸時代中期の幕領から古河藩への移管を受けるまでは、どこの大名の支配をも受けなかった。堀に囲まれており、十三の門からのみ出入りできる構造だった。

散郷四村(さんごうよんそん)はかつて周囲に存在した村落を平野が勢力下に収めたもので、平野郷における農業の出先としての役割を果たした。今在家村(今川町)、新在家村(杭全町)、中野村今林村が存在し、本郷七町と同様に小規模ではあるが土塁と堀の構造が築かれた。

十三の地蔵門と街路名[編集]

堀で囲まれていた平野に出入りするには、十三の出入り口のいずれかを通過する必要があった。また、同じ自治都市であった大坂や堺と同様に、平野の街路にはすべて名前が付けられていたほか、一部の街路は街道も兼ねていた。

名称 場所 街道
河骨池口 河骨池門筋御旅通り
市ノ口 市ノ門筋 八尾街道 東口
樋ノ尻口 樋尻筋 奈良街道 東口
出屋敷口 出屋敷門筋政所筋
田畑口 田畑門筋 古市街道
流口 残在橋筋(流門筋) 中高野街道 出口
堺口 梅ヶ枝筋 八尾街道 西口
西脇口 西脇門筋地蔵小路
田邊道西脇口 新町筋稲荷小路
小馬場口 興正寺筋・稲荷小路
馬場口 馬場門筋 奈良街道 西口
泥堂口 泥堂筋(泥堂門筋)
鐘辻口 御幸筋 杭全神社参道
中高野街道 終点

地名の由来[編集]

平野は初代征夷大将軍であった坂上田村麻呂の息子・坂上広野麻呂が開墾したとされ、その広野(ひろの)が時代とともに訛って平野(ひらの)となった説がよく知られる。

もう一つ、平野は縄文海進によってできた内海河内海の南端に位置し、湿地や泥地、湖沼が多かったためそれを埋め立てて「平らな野」としたことが由来という説もある。

歴史[編集]

古代・荘園として[編集]

全興寺の本堂。

かつて一帯は杭全荘と呼ばれ、古代から近代にかけて摂津国住吉郡に属した。また古くから難波津へのアクセス路として用いられ、難波京の建設時に整備された渋川道(のちの竜田越奈良街道、現在の国道25号線の一部)が町の中心を貫き、一種の宿場町的な交通の要所であった。なお後世にはさらに、中高野街道八尾街道放出街道古市街道といった主要街道が町内を貫き、もしくは起点としていた。

飛鳥時代には、当時の有力者であった厩戸皇子(聖徳太子)が地蔵堂を建立したという逸話があり、これが全興寺であるという。この全興寺は、後世において「平野」と呼ばれる都市の原型となる、小規模な門前町を形成した。

中世前期・門前町の形成[編集]

平安・鎌倉時代[編集]

大念仏寺は、大阪市下でも最大の木造建築物である。
杭全神社の拝殿。

平安時代には坂上田村麻呂の息子である坂上広野麻呂の荘園となり、862年貞観4年)には坂上当道八坂神社を勧請して杭全神社を創建した。これにより、平野の門前町にもう一つの「核」ができたといえる。さらには、1127年大治2年)の融通念仏宗総本山である大念仏寺の開基により、いっそう門前町としての要素が強化され、鎌倉時代には酒造産業などによる町場の形成が始まった。

また、中高野街道が杭全神社近くまで整備されたのもこの時代であると思われ、1148年仁和寺覚法法親王が高野山参詣の際に通ったという。

鎌倉時代には町場が形成されはじめ、「平野の黄金水」と呼ばれる井戸からの水で酒造も行われた。

南北朝時代[編集]

南北朝時代になると、同じ住吉郡に位置する住吉大社とともに後醍醐天皇の側につき、後醍醐帝の詔により杭全神社の第三殿が建設された。鳥居扁額が後醍醐天皇の筆であったことから、このころには、朝廷による杭全神社の信仰が篤かったことがわかる。

中世後期・物流拠点として[編集]

商品集散地の形成[編集]

中世後期には、戦国大名の台頭・幕府権力の縮小などが要因となり、畿内を含む日本全国で経済・流通が盛んになっていった。これに従って堺は当時として有数の都市に発展し、16世紀前半には石山本願寺[1]周辺に形成されていた寺内町も、摂津・河内の中核的な都市として発展した。ちなみに石山本願寺の寺内町は環濠を以て形成されており、戦国期の堺・平野の都市スタイルの先駆けであるといえる。

これに伴い、大坂、そして当時国際貿易により伸長していた堺での商業に貢献する商売作物の栽培が、南摂津や中河内などの周辺地域で流行した。平野は特に中高野街道の起点であり、奈良街道が街を横断していたことから、その物流の中継地点として急速に都市化が進んでいった。

石山本願寺の影響[編集]

坂上家の女性が住職を務める長寶寺も、寺内町を形成した「核」のひとつである。

先述の平野の伸長に目を付けたのが、先の石山本願寺を根拠地としていた浄土真宗一向宗)の派閥である。それを示す事例として、浄土真宗に帰依した明鎮という人物による、1495年明応5年)の光永寺開基が挙げられる。この光永寺の開基により平野郷内の真宗信者が増加し、1536年天文5年)には200人あまりの「平野衆」が普請として石山本願寺の寺内町に向かったという記録もある。

この本願寺系寺院のもとに住民が結集し、石山本願寺の支配下に入る動きは摂津・河内の全域にわたって見られた機運で、これにより多くの集落が寺内町に変化したといわれている。

しかし平野においては確かに光永寺は中心寺院としての座を得ていたが、平野郷内にはもともと杭全神社・大念仏寺・長寶寺などの有力寺院・神社がすでに存在していた。そのため、本願寺の影響力のもとに完全におかれていたわけではなく、それらの有力寺院・神社を複数の「核」として成り立つ複合的な寺内町であったというのが平野の特徴である。

戦国前期・自治都市として[編集]

環濠都市平野[編集]

戦国時代には、町を防衛するため周囲に環濠)を掘削し、防衛のための土居をめぐらした。13ヶ所の出入口には門と門番屋敷、そして地蔵尊が設置された。地蔵堂はそのほとんどが現在まで残っている。

堀の内は7町に区分され、そのすべてをそれぞれ坂上氏の末裔が統治した。すなわち各町が合議の上自治し、自らのことは自らで決定するという自治都市の制度が、平野に確立された。これが現在の平野のもととなった本郷七町であり、そこを治める家は七名家と呼ばれた。

加えて、このころまでに周辺に散在した小中規模の村落が平野の影響下におかれ、こちらは散郷四村と称した。町の外縁に堀を設けるかたちは平野郷の本郷から散郷にいたるまで共通していたほか、堺や今井といった当時同じくらいの規模であった都市にもあった。

商業都市平野[編集]

七名家の中でも特に末吉氏は大きな権力を持っており、その家長は「平野殿」と称され、実質的な平野の首長でもあった。末吉氏は平野郷外での商売に長け、堺の馬の管理者となって貿易に関与した。

このころには非公式に安南国(現在のベトナム)など東南アジア諸国との貿易も開始され、特に堺とは貿易上で連携するなど、商売敵であると同時に友好的な関係を保った。当時の平野におけるその商業の繁栄は、宣教師ルイス・フロイスも記録しており、次のように述べている。


堺の彼方一レグワ半、又は一レグワの所に、城の如く竹を以て囲いたる美しき村あり、名を平野といふ。此処に大いに富める人居住す
──ルイス・フロイス

「平堺同盟」[編集]

1568年永禄11年)に織田信長室町幕府将軍として足利義昭を擁立のうえ、京へ上洛した。それと共に大坂、堺、平野などに矢銭(軍事にかかわる税)の徴収を通達したが、堺、平野はこれを一蹴した。堺の会合衆は徴収に来る信長の軍勢に対抗し町を防衛するため、平野の年寄衆に対してこのような書簡を送った。

織田上総介、近日、馳上り候。その聞こえ候。そこもと御同心においては、双方示し合わせ、領堺に出向き、これを防ぐべく候。御相談のためかくのごとく候。恐惶謹言。

堺会合等

この書簡は、織田信長の台頭による危機感から、堺の会合衆が、同じ堀を持つ自治都市であった平野と協力し、信長に対抗しようとする申し入れであった。なお、この書簡は一つの都市の共同体が他都市の共同体に送った文書として、日本の歴史上唯一である[2]とされており、戦国時代の商人らによる、独立した都市自治の様相を示す貴重な資料である。

しかしこの文書に対する平野郷側の返答は残っておらず、日本史上類を見ない「都市の連合」、いわば同盟が実現したかは定かではない。ただし信長の攻撃を受けた堺から避難するために女性や子どもが平野へ移った記録は残っており、二つの都市が非常に密接な関係にあったことがわかる。

戦国後期・庇護下において[編集]

信長による支配[編集]

両都市ともに結局は信長の武力に屈し、その直轄地となった。

1570年(元亀元年)9月には代官蜂屋頼隆が平野に対し、市津料[3]および陣夫役といった税の徴収を免除するという特権を与えた。

同年10月には信長が徳政の免除を趣旨とする朱印状を発布し、平野周辺にある村々からの百姓の移住を許可した。さらには荷馬役の免除、他地域では黙認されていた放火や乱暴狼藉の取り締まりの確約などの特権を与えるなど、経済の発展を重きにおいた政策を積極的に実施した。

他方では「蔵納」という税の徴収や当時建設が進められていた天王寺城四天王寺とは別)の普請を命じるなど、信長の影響下に置き、支配を強めようという思惑がみられた。

商業影響力の拡大[編集]

1576年天正4年)には、織田信長の家臣であった筒井順慶が末吉氏の分家である西末吉家末吉勘兵衛利方に対して、織田領での独占的な商売を始めとした権利を与え、その12年後には旧織田領にて先んじて商売活動の自由を保障されていた東末吉家と同等の保障を得た。さらに上杉景勝も同様に領内での商業活動を保障し、徳川家康も続いた。

1583年(天正11年)には、利方は豊臣秀吉によって正式に平野郷とその周辺の領土を与えられ、続いて河内国丹北郡布忍村の代官となった。

江戸前期・都市の変貌[編集]

西末吉の伸長[編集]

天下統一後には、堺・平野に住んでいた有力な商人・職人は大坂城下への移住が強制され、堺・平野の両都市の影響力を削ごうという試みがなされた。

さらには大坂の陣真田幸村徳川秀忠の争いが繰り広げられ、平野のほとんどが全焼してしまう。しかし関ケ原の戦いでは、石田三成方の西軍につこうとした東末吉家を退け、利方は徳川家康の東軍に味方した。そして勝利の報を聞いた利方は、家康のいた大津まで徹夜で駆け付け出迎えたのである。

このことに対し家康は大きく感激し、1600年慶長5年)には「平野庄及六箇村軍勢乱暴狼藉堅制禁」を発布して平野とその影響下にある地域での狼藉を禁じた。この命は、秀吉によって一度は焼かれた平野が、その後外傷なく発展する礎となった。

政治への介入[編集]

その後家康は利方を重用するようになり、1601年(慶長6年)に伏見城へ招いて経済政策を問うた。利方は

流通している貨幣が多様。商取引において不自由であり、
物価乱高下の原因。貨幣の統一が急務である
──末吉勘兵衛利方

と提言した。家康はこれを重く受け止め、まもなく京都伏見日本初の貨幣鋳造・管理機関である銀座を設けて利方を代表におき、慶長小判の鋳造が開始された。

このころには平野は名実ともに都市となり、大坂・堺・岡山小倉鹿児島といった都市と同じく惣年寄が設けられた。また大坂の陣の復興施策として、光源寺を中心とした碁盤目状の町割りを実施し、長屋が整然と立ち並ぶ光景は京都や大坂に似た様相を呈した。

朱印船貿易[編集]

末吉孫左衛門が奉納した絵馬。

銀座が設けられたのと同時期の1601年(慶長6年)に家康はもうひとつ、朱印船の制度化という政策も行った。先述のとおり戦国時代から国外貿易を行っていた平野でも朱印船の渡航がはじまり、大坂の陣の功績により平野の旗本となった[注 1]利方の子・末吉孫左衛門吉康1608年(慶長13年)にはじめてシャム(現在のタイ)へ朱印船を送り、朱印船貿易の鏑矢となった。

末吉氏による朱印船の旺盛はほかを凌駕するもので、1638年寛永11年)までに大坂から国外へ渡航した朱印船20隻あまりのうち、半数以上の12隻が末吉家による「末吉船」である。末吉船は安南、東京(トンキン、現在のハノイ)、シャム、ルソン島など東南アジアの各主要都市と頻繁に交易し、日本町の形成にも関与した。

河川貿易[編集]

平野は国内での河川交通にもかかわっていた。吉康の子である末吉孫左衛門長方摂津国河内国の代官に任ぜられ、大雨の都度決壊していた大和川沿岸にある柏原村などの洪水地域を復興するため、柏原船を組織して柏原 - 平野 - 大坂城下にわたる船渡路線を実現。のちには平野は馬継場にも認定される。

これらの実績から1617年元和3年)の第2次朝鮮通信使1624年寛永元年)の第3次朝鮮通信使の大坂滞在時には、長方が御馳走役を担った。

江戸後期[編集]

木綿農業と中興[編集]

幕府が鎖国路線に転じ朱印船貿易を廃したあとは、江戸時代中期までに七名家による議会などの大都市的な制度が崩れ、大阪圏の地方都市としての性格を強めていった。この原因として、堺は幕府の直轄地として江戸時代を通して大きく発展を見せたものの、平野は内陸に位置したことから港がなく、商業地として十分な発展ができなかったことが挙げられる。

大和川の川違え工事によってその河路が南に大きく逸れると、平野を含む流域町村は稲作にあまり適さない土地となり、新たな農業が求められた。そこで平野郷は周辺地域を巻き込み、商業的かつ大規模な木綿産業を展開した。これらが要因となり、それまでの商業中心地としての平野と一転し、南摂・河内地域における木綿の集積地となった。このころには本郷七町だけで一万人の人口を擁し、ここに平野は中興を極めたといえる。

文化の成熟[編集]

これらの繁栄の裏には、含翆堂による初等教育の確立が大きい要因となる。含翠堂は七名家の土橋友直をはじめとする儒教研究者の集団によって1717年享保2年)に設立され、平野でもっとも大きい教育機関として多くの塾生をもった。含翠堂は日本初の庶民による教育機関郷学)でもあり、現在の大阪大学は含翠堂から分立した懐徳堂が前身となっている。

後述の平野郷夏祭りは、稲や綿の豊作のために降雨を祈ることを目的として始まったとされる。このころには杭全神社の連歌所も再建されており、これが現在まで続く世界唯一の連歌所となっている。

明治時代以降[編集]

1872年明治2年)に学制が発布され、含翠堂は廃止のうえ新設の住吉郡第一小学校(現在の大阪市立平野小学校)に統合された。1879年(明治12年)には散郷四村が平野郷から外れ、1883年(明治16年)には本郷七町もそれぞれが分立して独立した町となったが、それぞれ合併し、本郷七町も結局は平野郷町としてひとつにまとまった。町役場は大字野堂におかれた。

住吉郡
旧散郷四村
今在家村、新在家村、今林村→桑津村と合併し北百済村
中野村→砂子村鷹合村湯谷島村と合併し南百済村
旧本郷七町
平野馬場町、平野泥堂町、平野市町、平野野堂町、平野流町、平野背戸口町、平野西脇町→再合併し平野郷町

紡績業の発展[編集]

西末吉家住宅。
行幸先にもなった西末吉家住宅。国登録有形文化財となっている[4]

文明開化に伴って欧米から紡績機械が輸入されると、1887年(明治20年)には末吉家第14代当主末吉勘四郎などが発起人となり、平野紡績を発足させる。

平野紡績は技師・菊池恭三を当時「世界の工場」として名が高かった英国へ留学させ、機械紡績業の基礎を学ばせた。菊池はのちに尼崎紡績を創業し、平野紡績との合併により菊池が社長となる大日本紡績(のちのユニチカ)、日本綿花(のちの双日)へ発展していくこととなった。平野紡績の工場は平野駅の南におかれ、堀を埋め立てて造成されたほか、一時期は省線関西線から工場への専用線が敷かれていた。

大正時代に入った1914年大正3年)4月26日には南海平野線今池停留場 - 平野停留場間で開業し、中心部から離れた省線に代わって主要な平野へのアクセス路となった。さらには大阪市バスの最初の路線として、あべの橋 - 平野駅前間の1号系統路線が設定されるなど、公共交通が充実していった。行政においては、大大阪時代の到来、および税収とそれに伴く公共サービス・義務教育などの観点から大阪市への編入を求める意見が多くなり、1925年(大正14年)に周辺の旧住吉郡市町村とあわせて編入された。

1926年(大正15年)には都市計画十大放射路線が制定され、その中の府道大阪奈良線(奈良街道、現在の国道25号)において平野の町内を横断するバイパスが建設された。これにより含翠堂跡が取り壊された。

1927年昭和2年)には平野小学校に併設されていた大阪府女子師範学校が流町に新設移転し、実業高校への合併後は敷地が大阪教育大学附属平野小学校に利用された。

ちなみに、1929年(昭和4年)6月6日昭和天皇の例など、昭和・大正年間には大日本紡績平野工場へ大正天皇昭和天皇行幸が数回行われている。行幸の際には末吉家の本邸で休憩するのが通例となっていた。この本邸は1707年ごろの建築で当時の状態をほぼとどめており、国登録有形文化財にも指定されている。その建築様式は表千家残月亭をそっくり模したものである。

1934年(昭和9年)9月21日には室戸台風が襲来し、暴風雨によって平野小学校の木造校舎が強風により倒壊するなどして多数の死傷者が出た。このころの平野小学校は生徒数が1000名を超えていた。

現代[編集]

西平野停留場跡地には、記念として南海平野線の路線図が設けられている。

終戦後、平野は大阪都心部のベッドタウンとしての需要が注目され、より大量に相互間を輸送できる公共交通を建設するべきという意見が相次いだ。1963年(昭和38年)3月29日に提示された「都市交通審議会答申第7号」においては、

と提言された。

しかし結局は谷町線が平野区まで延伸することとなり、1980年(昭和55年)11月27日に大阪市営地下鉄谷町線 天王寺駅 - 八尾南駅間が開業し、同日、南海平野線は運行を終了した。

21世紀においては、平野を含めた平野区全域はますます住宅地化が進行しており、かつての繁栄が想像しにくくなっている。また2024年までは大阪市の行政区の中でもっとも人口が多い区であったが、2025年の統計調査では淀川区に抜かれるなど、少子高齢化も進行している。

歴史IF[編集]

実際の歴史ではありません。投稿者による多大な妄想が含まれます。ご注意ください。

もし平野が江戸時代以降も都市として発展をつづけていたら、どうなっていたのだろうか。

平野の発展が止まった直接の理由は、平野の惣組織が堺のそれのように都市自治組織として認められなかったからである。もしも認められていれば「平野奉行」が設置され、大坂、堺、そして平野が大坂三都市として知られていた可能性がある。

そしてこの体制が幕末までつづいた場合、昭和年間までに「平野市」が成立し、人口40万人程度の中核市として成長していたかもしれず、東大阪布施に代わって大規模歓楽街「ヒガシ」あるいは大阪市の副都心を形成していたのかもしれない。

あるいは、大念仏寺が融通念仏宗の布教活動を現実より積極的に行っていた場合、本願寺派に匹敵する勢力を得て、現在でも宗教都市的・観光都市的性格を帯びていた可能性もある。

鉄道[編集]

むろんこれほどの都市規模であれば、鉄道も現実と異なる様相を見せていたはずで、拡大した新市街地を支えるため、「平野市電」も運行されていたかもしれない。また南海平野線は存在せず、かわりに中高野街道のルートをたどって南海高野線が経由していたのかもしれない。

平野郷町[編集]

平野郷町
ひらのごうちょう
種類
日本国旗.png日本
地方 関西地方近畿地方
上位自治体 東成郡(初期は住吉郡)
大阪府
人口 14,531人(国勢調査1925年実施)
面積 不明
成立 1889年明治22年)4月1日
廃止 1925年大正14年)4月1日
役場・中心施設
役場所在地 大阪府東成郡平野郷町宮町(廃止時)
大阪市への編入により廃止済み。

平野郷町(ひらのごうちょう)は、かつて大阪府中部の東成郡(当初は住吉郡)にあった。現在平野区にあたる地域の大部分を占め、区名の由来である。

北では中河内郡巽村加美村、東では龍華村、南では喜連村、西では北百済村南百済村と接していた。

交通[編集]

中心市街地を奈良街道が横切っており、道路においても天王寺界隈へのアクセスは容易であった。 鉄道においては、町廃止時点で南海平野線 西平野停留場平野停留場鉄道省関西線平野駅が設置されており、特に南海平野線からは大阪市電天満橋停留場への直通電車の設定もあった。

沿革[編集]

  • 1889年明治22年)4月1日町村制が施行。あわせて平野馬場町、平野泥堂町、平野市町、平野野堂町、平野流町、平野背戸口町、平野西脇町の七町が合併し平野郷町が成立。旧平野野堂町にあたる大字平野野堂に町役場を設置。
  • 1896年(明治29年)4月1日:郡の整理・統廃合が実施され、住吉郡は廃止のうえ東成郡が成立。平野郷町も移管される。
  • 1922年大正11年):町の中心部に町丁が設定される。
  • 1925年(大正14年)4月1日:町という立場からの税収に対する問題とそれに伴く公共サービス・義務教育などの観点から、大阪市への編入を求める意見が多くなり、周辺町村とともに大阪市住吉区に編入される(大阪市第2次市域拡張)。

編入後[編集]

詳細は「平野区§歴史」を参照

  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 住吉区の分割により東住吉区が成立し、旧平野郷町に区役所がおかれる。
  • [[1974年](昭和49年)7月22日 - 東住吉区から平野区が成立し、旧東住吉区役所が平野区役所となる。区名は投票の際「大和川区」と「平野区」の対決とあったが、結果1票差で平野区に決定した。

祭事[編集]

万部おねり[編集]

毎年5月に、大念仏寺にて万部おねりという法要が実施されており、大阪市の無形民俗文化財に指定されている。これは通称で、正式には阿弥陀経万部読誦聖聚来迎会(あみだきょうまんぶどくじゅしょうじゅらいごうえ)といい、良尊法明上人がはじめたもの。万部会来迎会が合体したものとされる。

平野郷夏祭り[編集]

流町の地車。

毎年7月の11日から14日、杭全神社で平野郷夏祭りが行われる。大阪府下でも規模の大きく、大阪市内では最大規模のだんじり祭りで、毎年30万人が訪れるなど多くの人でにぎわっている。屋台は杭全公園とその周辺の道路に設置される。

だんじりは先述の本郷七町から野堂町を南・北・東にわけた九町で曳行される。12日に全町のだんじりが南港通に集合する「九町合同曳行」も見せ場のひとつである。13日には祭りのメインイベントともいえる宮入(みやいり)が行われ、だんじりは南港通から流門を通り、流門筋泥堂筋の順に北上していく。宮前交差点につくと各町が威風ある独自のパフォーマンスを披露し、杭全神社の大鳥居をくぐり抜けて参道を進んだり退いたりを繰り返して拝殿へ達する。14日には神事が行われ、ふとん太鼓に先導された神輿が渡御を行う。

しかし成立過程から、岸和田だんじりと同じく、いわゆる「やくざ」が運営主体になっているという噂もあり、2024年度夏祭りでは堺市からの参加者との言い争いも起こっている。これらから、平野郷夏祭りのもつ文化的な重要度が汚されているという意見もある。

花火大会[編集]

2024年より、毎年秋に花火大会が実施されている。当初は大阪市立平野小学校PTAの発案で実施されたことから、同小学校の敷地を借りて挙行されている。現在は町内会の主催である。

子供祭り[編集]

7月末には、平野公園に隣接する延喜式内社三十歩神社赤留比売命神社)にてこども祭りが行われる。名前のとおりこどものための祭りで、屋台はすべて100円とリーズナブルでこどもが楽しめるようになっている。

盆踊り[編集]

平野は河内盆踊りの一流派である平野節を伝える初音家の発祥地であることから、毎年平野公園で盆踊りが実施されていたが、新型コロナウイルス(COVID-19)流行以降実施されていない。実施時にはグラウンドに壮大なが組まれ、区議会議員や初音家一門を招聘のうえ盛大に執り行われていた。

平野町ぐるみ博物館[編集]

平野町ぐるみ博物館(ひらのまちぐるみはくぶつかん)は、平野郷がとどめている古い町並みをより多くの人に知ってもらうために住民が開始した取り組みで、町中にちらばった小さな博物館の集まりである。1993年から、個人の住宅や商店を開放のうえ始まった。すべて本郷七町内にある。

一覧[編集]

  • ちっこいだんじり館
  • かたなの博物館
  • パズル茶屋
  • 平野映像資料館
  • 自転車屋さん博物館
  • 幽霊博物館
  • 新聞屋さん博物館
  • くらしの博物館
  • 鎮守の森博物館
  • 小さな駄菓子屋さん博物館
  • 和菓子屋さん博物館
  • 平野の音博物館
  • ゆうびん局博物館
  • 珈琲屋さん博物館
  • へっついさん博物館

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. いち商人から旗本に成り上がった、一種の下剋上である。
  1. 大坂本願寺上町台地の北端に位置し、現在の大坂城一帯。
  2. 「平野区誌」平野区誌刊行委員会。平成17年5月21日発行。
  3. 平野の住民がほかの地域に赴く際に支払う通行料のこと。
  4. 末吉家住宅母屋 - 大坂文化財ナビ”。大坂文化財ナビ.2025114-16閲覧。