平堺同盟

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平堺同盟(へいかいどうめい)とは、戦国時代平野の間で締結されたとされる同盟軍事同盟)。戦国時代の大阪平野における、商人自由都市の発展を大いに示す文書である。

経過[編集]

1568年永禄11年)足利義昭を擁立して上洛した織田信長は、さらなる勢力の拡張のため大坂の都市から税の徴収を企てた。しかし堺・平野はこれを拒否し、強引な税の徴収を図る信長との間で交戦状態に入った。

ここで堺は町を防衛するため、平野の年寄衆に対してこのような文書を送った。

織田上総介、近日、馳上り候。その聞こえ候。そこもと御同心においては、双方示し合わせ、領堺に出向き、これを防ぐべく候。御相談のためかくのごとく候。恐惶謹言。

──堺会合等

この書簡は、織田信長の台頭による危機感から、堺の会合衆が同じを持つ自治都市であった平野と協力し、信長へ対抗し共に戦うため、平野に軍事支援を求める申し入れであった。

この文書に対する平野郷側の返答は残っておらず、都市の同盟が本当に実現したかの詳細は不明である。ただし、結果として信長の攻撃を受けた堺の女性や子どもが平野に避難したという記録は残存しており、軍事支援の要請を差し引いても両都市が非常に有効的な関係を築いていたことが見て取れる。

さらに、このような一都市による他の都市に対しての軍事支援の要請は、日本史上でも他に例がない。後にも先にも、この「平堺同盟」を申し入れた文書のみである。

これは戦国時代の日本において、商人らによる、公権力や大名らにも対抗できるほどの高度な防衛能力を持った「自治都市」および「自由都市」の制度が存在していたこと、そしてその成熟度合いを示しているといえるだろう。

関連項目[編集]