平野 (大阪市)

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平野(ひらの)は、大阪府大阪市平野区の地名、かつての都市。平野区の名前の由来である。大坂に近い街道沿いであったため、古くから商業地として栄え、明治時代以降も紡績業で栄えた。

広義の平野は平野区全体を指すが、ふつうは平野郷町の元となったかつての七つの町(本郷七町)に相当する地域を指す。

地名の由来[編集]

平野は初代征夷大将軍であった坂上田村麻呂の息子・坂上広野麻呂が開墾したとされ、その広野(ひろの)が時代とともに訛って平野(ひらの)となった説がよく知られる。

もう一つ、平野は縄文海進によってできた内海河内海の南端に位置し、湿地や泥地、湖沼が多かったためそれを埋め立てて「平らな野」としたことが由来という説もある。

歴史[編集]

門前町としての発展[編集]

かつての荘園時代は杭全荘と呼ばれ、古代から近代にかけて摂津国住吉郡に属した。また古くから難波津へのアクセス路として用いられ、町の中心には難波京の建設時に整備された渋川道(のちの竜田越奈良街道、現在の国道25号線の一部)が貫き、交通の要所であった。

飛鳥時代には、当時の有力者であった厩戸皇子(聖徳太子)が地蔵堂を建立したという逸話があり、これが現在の全興寺である。全興寺は、その後平野の原型となる門前町を形成した。

平安時代前期には、先述のとおり坂上田村麻呂の息子である坂上広野麻呂の荘園となる。862年貞観4年)には広野麻呂の息子の坂上当道による八坂神社の勧請で杭全神社が創建され、平野は杭全神社の門前町としても発展していくこととなった。なお坂上氏の荘園はその後寄贈され、500年以上に渡り平等院のものとなるが、子孫は残留し依然代官を務めた。

平安時代末期にあたる1127年大治2年)の大念仏寺開基により、平野はますます門前町としての要素を強めていき、当時としても広範囲にわたった。また南北朝時代には、同じ住吉郡に位置する住吉大社とともに後醍醐天皇の側につき、詔により杭全神社の第三殿を建設した。このころには朝廷の信仰も篤く、鳥居扁額も後醍醐天皇の筆であった。

鎌倉時代には町場が形成されはじめ、「平野の黄金水」と呼ばれる井戸からの水で酒造も行われた。

自治都市の成立[編集]

戦国時代には、町を防衛するため周囲に環濠)を掘削し、防衛のための土居をめぐらした。13ヶ所の出入口には門と門番屋敷が設置された。門にはあわせて地蔵堂も建立され、そのほとんどが現在まで残存する。堀の内は7町に区分され、そのすべてをそれぞれ坂上氏の末裔が統治した。すなわち各町が合議の上自治し、自らのことは自らで決定する自治都市の制度が平野に確立された。これが現在の平野のもととなった本郷七町であり、そこを治める家が七名家である。

本郷七町と対をなす散郷四村である今在家村(今川町)、新在家村(杭全町)、中野村今林村においても同様に、小規模ではあるが土塁と堀の構造が築かれた。

商業地への成長[編集]

七名家の中でも特に末吉氏は大きな権力を持っており、その家長「平野殿」と称され実質的な平野の首長でもあった。末吉氏は平野郷外での商売に長け、においては運送業を独占した。

このころには非公式に安南国(現在のベトナム)など東南アジア諸国との貿易も開始し、特に堺とは貿易上連携するなど、商売敵かつ友好関係でもあった。その商業の繁栄はルイス・フロイスも述べるほどで、

堺の彼方一レグワ半、又は一レグワの所に、城の如く竹を以て囲いたる美しき村あり、名を平野といふ。此処に大いに富める人居住す
──ルイス・フロイス

と残している。

織田信長の台頭による危機感から、同じ堀を持つ自治都市であった堺の会合衆と同盟を組んで対抗する構えであったが、結局は信長の武力に屈した。1576年天正4年)には、織田信長の家臣であった筒井順慶が末吉氏の分家である西末吉家末吉勘兵衛利方に対して一部地域での独占的な商売を始めとした権利を与え、その12年後には旧織田領にて先んじて商売活動の自由を保障されていた東末吉家と同等の保障をも得た。さらに上杉景勝も同様に領内での商業活動を保障し、徳川家康も続いた。

1583年(天正11年)には、利方は豊臣秀吉によって平野郷とその周辺の領土を与えられ、続いて河内国丹北郡布忍村の代官にもなるなど、影響の拡大が続いた。

天下統一後は平野の住民のうち有力な商人・職人は大坂城下や中央区平野町および天王寺区上汐への移住が強制され、さらには大坂の陣真田幸村徳川秀忠の争いが繰り広げられ、平野のほとんどが全焼してしまう。しかし関ケ原の戦いでは、石田三成方の西軍につこうとした東末吉家を退け、利方は徳川家康の東軍に味方した。そして勝利の報を聞いた利方は、家康のいた大津まで徹夜で駆け付け出迎えたのである。

このことに対し家康は大きく感激し、1600年慶長5年)には「平野庄及六箇村軍勢乱暴狼藉堅制禁」を発布して平野とその影響下にある地域での狼藉を禁じた。この命は、秀吉によって一度は焼かれた平野が、その後外傷なく発展する礎となった。

朱印船と繁栄[編集]

その後家康は利方を重用するようになり、1601年(慶長6年)に伏見城へ招いて経済政策を問うた。利方は

流通している貨幣が多様。商取引において不自由であり、
物価乱高下の原因。貨幣の統一が急務である
──末吉勘兵衛利方

と提言した。家康はこれを重く受け止め、まもなく京都伏見銀座を設けて利方を代表におき、慶長小判の鋳造が開始された。

このころには平野は名実ともに都市となり、大坂・堺・岡山小倉鹿児島といった都市と同じく惣年寄が設けられた。また大坂の陣の復興施策として、光源寺を中心とした碁盤目状の町割りを実施し、長屋が整然と立ち並ぶ光景は京都や大坂に似た様相を呈した。

銀座が設けられたのと同時期の1601年(慶長6年)に家康はもうひとつ、朱印船の制度化という政策も行った。先述のとおり戦国時代から国外貿易を行っていた平野でも朱印船の渡航がはじまり、大坂の陣の功績により平野の旗本となった[注 1]利方の子・末吉孫左衛門吉康1608年(慶長13年)にはじめてシャム(現在のタイ)へ朱印船を送り、朱印船貿易の鏑矢となった。

末吉氏による朱印船の旺盛はほかを凌駕するもので、1638年寛永11年)までに大坂から国外へ渡航した朱印船20隻あまりのうち、半数以上の12隻が末吉家による「末吉船」である。末吉船は安南、東京(トンキン、現在のハノイ)、シャム、ルソン島など東南アジアの各主要都市と頻繁に交易し、日本町の形成にも関与した。

平野は国内での河川交通にもかかわっていた。吉康の子である末吉孫左衛門長方摂津国河内国の代官に任ぜられ、大雨の都度決壊していた大和川沿岸にある洪水地域を復興するため、柏原船を組織して柏原 - 平野 - 大坂城下にわたる船渡路線を実現。のちには平野は馬継場にも認定される。これらの実績から1617年元和3年)の第2次朝鮮通信使1624年寛永元年)の第3次朝鮮通信使の大坂滞在時には、長方が御馳走役を担った。

木綿農業と中興[編集]

幕府が鎖国路線に転じ朱印船貿易を廃したあとは、江戸時代中期までに七名家による議会などの大都市的な制度がくずれ、在郷町的な地方都市としての性格を強めていった。

大和川の川違え工事によってその河路が南に大きく逸れると、平野を含む流域町村は稲作にあまり適さない土地となり、新たな農業が求められた。そこで平野郷は周辺地域を巻き込み、c商業的かつ大規模な木綿産業を展開した。これらが要因となり、それまでと一転して南摂・河内地域における木綿の集積地となった。このころには在郷七町だけで一万人の人口を擁し、ここに平野は中興を極めたといえる。

これらの繁栄の裏には、含翆堂による初等教育の確立が大きい要因となる。含翠堂は七名家の土橋友直をはじめとする儒教研究者の集団によって1717年享保2年)に設立され、平野でもっとも大きい教育機関として多くの塾生をもった。日本初の庶民による教育機関郷学)でもあり、現在の大阪大学は含翠堂から分立した懐徳堂が前身となっている。

後述の平野郷夏祭りは、稲や綿の豊作のために降雨を祈ることを目的としてこのころ始まったとされる。

このころには杭全神社の連歌所も再建されており、これが現在まで続く世界唯一の連歌所となっている。

明治時代以降[編集]

1872年明治2年)に学制が発布され、含翠堂は廃止のうえ新設の住吉郡第一小学校(現在の大阪市立平野小学校)に統合された。1879年(明治12年)には散郷四村が平野郷から外れ、1883年(明治16年)には本郷七町もそれぞれが分立して独立した町となったが、それぞれ合併し、本郷七町も結局は平野郷町としてひとつにまとまった。町役場は大字野堂におかれた。

住吉郡
旧散郷四村
今在家村、新在家村、今林村→桑津村と合併し北百済村
中野村→砂子村鷹合村湯谷島村と合併し南百済村
旧本郷七町
平野馬場町、平野泥堂町、平野市町、平野野堂町、平野流町、平野背戸口町、平野西脇町→再合併し平野郷町

紡績業の発展[編集]

文明開化に伴って欧米から紡績機械が輸入されると、1887年(明治20年)には末吉家第14代当主末吉勘四郎などが発起人となり、平野紡績を発足させる。

平野紡績は技師・菊池恭三を当時「世界の工場」として名が高かった英国へ留学させ、機械紡績業の基礎を学ばせた。菊池はのちに尼崎紡績を創業し、平野紡績との合併により菊池が社長となる大日本紡績(のちのユニチカ)、日本綿花(のちの双日)へ発展していくこととなった。平野紡績の工場は平野駅の南におかれ、堀を埋め立てて造成されたほか、一時期は省線関西線から工場への専用線が敷かれていた。

大正時代に入ると、1914年 (大正3年)4月26日には南海平野線今池停留場 - 平野停留場間で開業し、中心部から離れた省線に代わって主要な平野へのアクセス路となった。さらには大阪市バスの最初の路線として、あべの橋 - 平野駅前間の1号系統路線が設定されるなど、公共交通が充実していった。行政においては、税収とそれに伴く公共サービス・義務教育などの観点から大阪市への編入を求める意見が多くなり、1925年(大正14年)に周辺の旧住吉郡市町村とあわせて編入された。

1927年昭和2年)には平野小学校に併設されていた大阪府女子師範学校が流町に新設移転し、実業高校への合併後は敷地が大阪教育大学附属平野小学校に利用された。

ちなみに、1929年(昭和4年)6月6日昭和天皇の例など、昭和・大正年間には大日本紡績平野工場へ大正天皇昭和天皇行幸が数回行われている。行幸の際には末吉家の本邸で休憩するのが通例となっていた。この本邸は1707年ごろの建築で当時の状態をほぼとどめており、国登録有形文化財にも指定されている。その建築様式は表千家残月亭をそっくり模したものである。

1934年(昭和9年)9月21日には室戸台風が襲来し、暴風雨によって平野小学校の木造校舎が強風により倒壊するなどして多数の死傷者が出た。このころの平野小学校は生徒数が1000名を超えていた。

現代[編集]

終戦後、平野は大阪都心部のベッドタウンとしての需要が注目され、より大量に相互間を輸送できる公共交通を建設するべきという意見が相次いだ。1963年(昭和38年)3月29日に提示された「都市交通審議会答申第7号」においては、

と提言された。

しかし結局は谷町線が平野区まで延伸することとなり、1980年(昭和55年)11月27日に大阪市営地下鉄谷町線 天王寺駅 - 八尾南駅間が開業し、同日南海平野線は運行を終了した。

21世紀においては、平野を含めた平野区全域はますます住宅地化が進行しており、かつての繁栄が想像しにくくなっている。また2024年までは大阪市の行政区の中でもっとも人口が多い区であったが、2025年の統計調査では淀川区に抜かれるなど、少子高齢化も進行している。

平野郷町[編集]

平野郷町
ひらのごうちょう
種類
日本国旗.png日本
地方 関西地方近畿地方
上位自治体 東成郡(初期は住吉郡)
大阪府
人口 14,531人(国勢調査1925年実施)
面積 不明
成立 1889年明治22年)4月1日
廃止 1925年大正14年)4月1日
平野郷町役場
役場所在地 大阪府東成郡平野郷町宮町(廃止時)
廃止済み。

平野郷町(ひらのごうちょう)は、かつて大阪府中部の東成郡(当初は住吉郡)にあった。現在平野区にあたる地域の大部分を占め、区名の由来である。

沿革[編集]

  • 1889年明治22年)4月1日町村制が施行。あわせて平野馬場町、平野泥堂町、平野市町、平野野堂町、平野流町、平野背戸口町、平野西脇町の七町が合併し平野郷町が成立。旧平野野堂町にあたる大字平野野堂に町役場を設置。
  • 1896年(明治29年)4月1日:郡の整理・統廃合が実施され、住吉郡は廃止のうえ東成郡が成立。平野郷町も移管される。
  • 1922年大正11年):町の中心部に町丁が設定される。
  • 1925年(大正14年)4月1日:町という立場からの税収に対する問題とそれに伴く公共サービス・義務教育などの観点から、大阪市への編入を求める意見が多くなり、周辺町村とともに大阪市住吉区に編入される(大阪市第2次市域拡張)。

祭事[編集]

平野郷では長い歴史のなかでさまざまな祭りが誕生し、現在までつづいている。近年では周辺住民からの苦情[注 2]や食中毒防止の観点などにより、環境アセスメントを十分考証したうえでの実施がされている。

万部おねり[編集]

毎年5月に、大念仏寺にて万部おねりという法要が実施されており、大阪市の無形民俗文化財に指定されている。これは通称で、正式には阿弥陀経万部読誦聖聚来迎会(あみだきょうまんぶどくじゅしょうじゅらいごうえ)といい、良尊法明上人がはじめたもの。万部会来迎会が合体したものとされる。

平野郷夏祭り[編集]

毎年7月の11日から14日に杭全神社で、平野郷夏祭りが行われる。大阪府下でも規模の大きく、大阪市内では最大規模のだんじり祭りで、毎年30万人が訪れるともいわれるなど多くの人でにぎわっている。屋台は杭全公園とその周辺の道路に設置され、特に敷地東方のお化け屋敷が人気である。

だんじりは先述の本郷七町から野堂町を南・北・東にわけた九町で曳行される。12日に全町のだんじりが南港通に集合する「九町合同曳行」も見せ場のひとつである。13日には祭りのメインイベントともいえる宮入が行われ、だんじりは南港通から流門を通り、流門筋泥堂筋の順に北上していく。宮前交差点につくと各町が威風ある独自のパフォーマンスを披露し、杭全神社の大鳥居をくぐり抜けて参道を進んだり退いたりを繰り返して拝殿へ達する。14日には神事が行われ、ふとん太鼓に先導された神輿が渡御を行う。

子供祭り[編集]

7月末には、平野公園に隣接する[[延喜][[式内社]・三十歩神社赤留比売命神社)にてこども祭りが行われる。名前のとおりこどものための祭りで、屋台はすべて100円とリーズナブルでこどもが楽しめるようになっている。

盆踊り[編集]

平野は河内盆踊りの一流派である平野節を伝える初音家の発祥地であることから、毎年平野公園で盆踊りが実施されていたが、新型コロナウイルス(COVID-19)流行以降実施されていない。実施時にはグラウンドに壮大なが組まれ、区議会議員や初音家一門を招聘のうえ盛大に執り行われていた。

平野町ぐるみ博物館[編集]

平野町ぐるみ博物館(ひらのまちぐるみはくぶつかん)は、平野郷がとどめている古い町並みをより多くの人に知ってもらうために住民が開始した取り組みで、町中にちらばった小さな博物館の集まりである。1993年から、個人の住宅や商店を開放のうえ始まった。すべて本郷七町内にある。

一覧[編集]

  • ちっこいだんじり館
  • かたなの博物館
  • パズル茶屋
  • 平野映像資料館
  • 自転車屋さん博物館
  • 幽霊博物館
  • 新聞屋さん博物館
  • くらしの博物館
  • 鎮守の森博物館
  • 小さな駄菓子屋さん博物館
  • 和菓子屋さん博物館
  • 平野の音博物館
  • ゆうびん局博物館
  • 珈琲屋さん博物館
  • へっついさん博物館

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. いち商人から旗本に成り上がった、一種の下剋上である。
  2. 夏祭り終了後、杭全公園周辺には食べこぼしによる異臭さわぎがあったが、近年では一掃されている。