鎌倉仏教
鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)は、平安時代末期から鎌倉時代に成立した仏教の宗派や祖師の教理の総称。鎌倉時代の仏教全体を指すこともある。一般的に法然を開祖とする浄土宗、親鸞を開祖とする浄土真宗、日蓮を開祖とする日蓮宗、一遍を開祖とする時宗、栄西を開祖とする臨済宗、道元を開祖とする曹洞宗の6宗を指す。鎌倉新仏教(新仏教)とも呼ばれ、旧仏教(南都六宗と真言宗・天台宗)と対比される。旧仏教である南都仏教の復興も鎌倉新仏教に含めることがあり、その代表的な人物に華厳宗の明恵、法相宗の貞慶、律宗の俊芿、叡尊、忍性がいる。
鎌倉新仏教は旧仏教の腐敗・堕落、末法思想の克服、政治・社会変動を背景に成立し[1][2][3]、選択(多くの修行方法から1つを選ぶ)、専修(1つの修行方法のみ行う)、易行(誰にでもできる易しい修行。反戒律)、反密教が指標であるとされる[4]。貴族や僧侶にのみ可能な複雑な理論や修行、造寺造仏、寺領寄進、戒律などは不要であり、念仏・題目・座禅のような易行の専修で十分であるとし、武士や庶民に仏教を解放したとされる。しかし、日蓮の思想は天台宗を受け継いだ要素が大きく、一遍は熊野信仰や禅的な要素を取り込んでいた[5]。また法然は持戒の聖者であり、道元は戒律護持を重視したため、これらを指標とすることは不正確である[4]。また貴族の九条兼実が法然の信者であったこと、院政期には仏教が庶民に浸透していたことなどから、民衆救済が特徴であるとするのも不正確である[6][7]。
黒田俊雄が「中世における顕密体制の展開」(『日本中世の国家と宗教』岩波書店、1975年)で顕密体制論を提唱して以降、「新仏教・旧仏教」という区分は疑問視されている。黒田によると、中世において顕密仏教(いわゆる旧仏教)が社会的勢力・宗教的権威・思想的影響力のいずれの面でも支配的位置を占め、家永三郎や井上光貞が形成した鎌倉新仏教史観で中世仏教の主役とされた新仏教諸派は少数派に過ぎなかった[8]。黒田は「新仏教・旧仏教」という区分は近世以降の宗派を基準としたものであるとして採用せず、顕密仏教を「正統派」、法然・親鸞・日蓮・道元などを「異端派」、明恵や叡尊などを「改革派」と位置付けた。
平雅行は鎌倉新仏教史観の特徴として、「①中世の旧仏教を古代仏教と捉える」「②旧仏教の腐敗・堕落への批判として鎌倉新仏教が登場し、その刺激を受けて旧仏教の復興運動が登場したと考える」「③中世を民衆仏教の時代と捉える」をあげ[9]、その問題点として「①中世仏教の始まりを鎌倉時代と捉えていて、中世社会・中世国家の成立を院政時代に求める歴史像と齟齬を来す」「②平安中後期における顕密仏教の歴史的変容に無頓着であり、極端な場合、戦国期の没落まで顕密仏教の記述がない」「③鎌倉幕府や室町幕府が顕密仏教を保護したことを無視する」「④鎌倉時代の仏教革新において、貞慶・明恵らを旧仏教の僧侶と誤認している」「⑤旧仏教の復興と鎌倉新仏教との弁別に合理的根拠がない」「⑥鎌倉時代の顕密仏教が危機に直面しながらも、仏教界の主導性を失わなかった事実を無視する」をあげている[10]。平によると、鎌倉新仏教が初めて民衆救済を行ったというのは事実ではなく、院政時代に念仏往生の教えや在俗出家の風習が社会に広まった[7]。鎌倉時代の仏教革新が起きた原因は仏教界の腐敗・堕落ではなく、鎮護国家を標榜する仏法が治承・寿永の乱と承久の乱に対し無力であったことによる。貞慶・明恵・栄西・俊芿・叡尊らの穏健改革派は顕密僧の破戒に原因があると考え、戒律の厳守を主張した。一方、法然・親鸞・道元・日蓮ら急進改革派は既成の仏教を全否定し、新たに真の仏法を探求した。急進改革派の内、法然・親鸞は仏法を鎮護国家から切り離し、道元・日蓮は真の鎮護国家仏教を探求した[11]。なお貞慶・明恵・叡尊らは官僧から離脱した聖であり、旧仏教の僧ではない[12]。戦国時代に仏教界で下剋上が起き、浄土宗・浄土真宗や日蓮宗は大衆的基盤を確保した[7]。
佐々木馨、松尾剛次、末木文美士などは顕密体制論を批判して独自の鎌倉仏教論を展開している[8]。松尾剛次は「遁世僧仏教」が鎌倉新仏教であると捉える。法然・親鸞・道元・一遍・日蓮といった新仏教の祖師、貞慶・明恵・叡尊・忍性といった旧仏教の改革派といわれる仏教者は、いったん官僧となった後に官僧身分を離脱した遁世僧であった[13]。遁世僧仏教に共通する特徴は「個人」救済である。法然や道元は平安京、親鸞は常陸の都市的な場で布教し、「個」の悩みを持った都市民の心を捉えた[13]。叡尊教団は女人救済や非人・ハンセン病者救済の活動を行った。官僧は穢れ、特に死穢を忌避して葬式に従事できなかったが、遁世僧は葬式に従事した。これらの活動は「個人」(近現代の個人とは区別される)の救済に関わっていると考えられる[6]。末木文美士は思想史的な面から鎌倉仏教を以下のように概観している。「本覚思想に代表されるような現実肯定的な傾向が強まり、そこから戒律や修行を不要とした堕落ともいえる様相を呈するようになった。それに対し、その状況を反省し、ふたたび実践性を取りもどし、宗教としての本来のあり方に立ち返ろうとしたのが鎌倉期の新仏教や南都改革派の運動であったと考えられる」[14]。宋の仏教の影響が大きい南都改革派や禅宗は戒律復興や禅の修行で実践性を取り戻そうとした。浄土念仏や日蓮の唱題の思想は従来の仏教が現実に合わないことを認め、新しい実践法を求めるものと考えられる[14]。
出典[編集]
- ↑ 百科事典マイペディア 「鎌倉仏教」の意味・わかりやすい解説 コトバンク
- ↑ 山川 日本史小辞典 改訂新版 「鎌倉仏教」の解説 コトバンク
- ↑ 旺文社日本史事典 三訂版 「鎌倉仏教」の解説 コトバンク
- ↑ a b 松尾剛次『日本仏教史入門――釈迦の教えから新宗教まで』平凡社新書、2022年、80-81頁
- ↑ 末木文美士『日本仏教史――思想史としてのアプローチ』新潮文庫、1996年、98-99頁
- ↑ a b 松尾剛次『日本仏教史入門――釈迦の教えから新宗教まで』平凡社新書、2022年、108-110頁
- ↑ a b c 平雅行「鎌倉新仏教史観の破綻と教科書叙述」、大西信行、佐藤雄基編『日本史を宗教で読みなおす』山川出版社、2025年、61-63頁
- ↑ a b 佐藤弘夫「中世仏教研究と顕密体制論(PDF)」『日本思想史学』第33号、2001年
- ↑ 平雅行「鎌倉新仏教史観の破綻と教科書叙述」、大西信行、佐藤雄基編『日本史を宗教で読みなおす』山川出版社、2025年、53頁
- ↑ 平雅行「鎌倉新仏教史観の破綻と教科書叙述」、大西信行、佐藤雄基編『日本史を宗教で読みなおす』山川出版社、2025年、70頁
- ↑ 平雅行「鎌倉新仏教史観の破綻と教科書叙述」、大西信行、佐藤雄基編『日本史を宗教で読みなおす』山川出版社、2025年、64-65頁
- ↑ 平雅行「鎌倉新仏教史観の破綻と教科書叙述」、大西信行、佐藤雄基編『日本史を宗教で読みなおす』山川出版社、2025年、55頁
- ↑ a b 松尾剛次『日本仏教史入門――釈迦の教えから新宗教まで』平凡社新書、2022年、60-63頁
- ↑ a b 末木文美士『日本仏教史――思想史としてのアプローチ』新潮文庫、1996年、202-203頁
参考文献[編集]
- 大野達之助「鎌倉仏教|国史大事典」(ジャパンナレッジ)
- 佐藤弘夫「中世仏教研究と顕密体制論(PDF)」(『日本思想史学』第33号、2001年)
- 東海林良昌「鎌倉仏教」(新纂浄土宗大辞典)
- 末木文美士『日本仏教史――思想史としてのアプローチ』(新潮社[新潮文庫]、1996年)
- 平雅行「鎌倉新仏教史観の破綻と教科書叙述」(大西信行、佐藤雄基編『日本史を宗教で読みなおす』山川出版社、2025年)
- 奈須恵子「教科書記述の変遷――『詳説日本史』における「仏教」記述について」(大西信行、佐藤雄基編『日本史を宗教で読みなおす』山川出版社、2025年)
- 松尾剛次『日本仏教史入門――釈迦の教えから新宗教まで』(平凡社[平凡社新書]、2022年)
- 鎌倉仏教(コトバンク)
関連文献[編集]
- 菊地大樹『鎌倉仏教への道――実践と修学・信心の系譜』(講談社[講談社選書メチエ]、2021年)
- 佐藤弘夫『鎌倉仏教』(第三文明社[レグルス文庫]、1994年/筑摩書房[ちくま学芸文庫]、2014年)
- 平雅行『鎌倉仏教の中世』(法藏館[法藏館文庫]、2025年)
- 田中久夫『鎌倉仏教』(教育社[教育社歴史新書]1980年/講談社[講談社学術文庫]、2009年)
- 平岡聡『鎌倉仏教』(KADOKAWA[角川選書]、2021年)
- 松尾剛次『鎌倉新仏教の誕生――勧進・穢れ・破戒の中世』(講談社[講談社現代新書]、1995年)
- 戸頃重基『鎌倉仏教――親鸞と道元と日蓮』(中央公論社[中公新書]、1967年/中央公論社[中公文庫]、2002年)