近藤勇

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近藤勇(こんどういさみ、1834年11月5日1868年5月17日)は幕末の新選組の局長である。

多摩時代[編集]

1834年11月5日 (天保5年10月9日)、武州多摩郡上石原村(現東京都調布市上石原)の農家宮川久次郎の三男として生まれる。母は宮川みよ。幼名は宮川勝五郎であった。天保10年、6歳のときに母を失う。1848年(弘化5年)15歳で試衛館道場の近藤周助に入門する。1849年(弘化6年)、天然理心流目録を得る。近藤周助の養子となり[1]、島崎勝太と改名する[2]1858年(安政5年)頃、近藤勇に改名する。1860年、27歳でつねと結婚する。1861年、天然理心流4代目を襲名した。

浪士隊結成[編集]

1863年2月4日、近藤は幕府の浪士募集に応募し、試衛館門人とともに小石川伝通院に参加する。浪士は250名集まった。参加した試衛館門人は近藤勇を筆頭として、土方歳三沖田総司井上源三郎山南敬介永倉新八原田佐之助藤堂平助の計8名であった[3]。近藤は道中先番宿割の役目についた。実務能力が見込まれたのであろう。

京都時代[編集]

1863年2月8日中山道経由で上洛し、2月23日京都に着く。屯所は鄕士の八木源之丞方であった。3月3日の集会で清河八郎らの一派は江戸に帰ることになったが、近藤らは会津藩の松平容保藩主宛に京都残留の嘆願書を提出した。3月12日に認められて会津藩 のお預かりとなり、京都市中の治安維持が命じられる。9月頃「新選組」の隊名を会津藩京都守護職松平容保より拝領し、京都市中取り締まりを命じられる。1863年9月18日芹沢鴨を暗殺する。 1864年6月5日、池田屋事件長州藩士を襲撃する。7月19日禁門の変で出動する。1865年2月23日、山南敬介切腹する。3月10日、屯所を西本願寺に移転する。1867年6月10日江戸幕府召し抱えとなり、晴れて幕臣(武士)になる。1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いで敗戦し、江戸に戻る。

転戦[編集]

1868年3月1日、近藤等は甲陽鎮撫隊を結成し甲府に向かう。3月6日、勝沼の戦いで敗れる。4月3日、大久保大和の変名で下総・流山で兵を集めていたところ長岡屋本陣が包囲され、東山道軍(新政府軍)に投降する。4月25日、板橋の刑場で近藤勇は斬首される。享年35歳。

埋葬等[編集]

近藤の首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬された。明治9年に新選組二番隊長の永倉新八が発起人となり、松本順の協力を得て、板橋駅東口前の寿徳寺境外に墓を建立した[4]

近藤勇の写真[編集]

今も残る近藤勇の写真は、慶応4年に、近藤自身が佐藤彦五郎を訪問したときに持参したものと伝わる[5]

参考文献・注[編集]

  1. 近藤勇養子縁組状文化遺産オンライン
  2. 「島崎」は近藤周助の実家の名前だが、Wikipedia日本語版では「嶋崎」となっている。
  3. 山村竜也(2003)『新選組近藤勇伝』NHK出版
  4. 近藤勇の墓板橋区観光協会
  5. 佐藤彦五郎子孫蔵、日野市ふるさと博物館