近藤勇
近藤勇(こんどういさみ、1834年11月5日 -1868年5月17日)は幕末の新選組の局長である。
多摩時代[編集]
1834年11月5日 (天保5年10月9日)、武州多摩郡上石原村(現東京都調布市上石原)の農家宮川久次郎の三男として生まれる。母は宮川みよ。幼名は宮川勝五郎であった。1839年(天保9年)の「宗門人別五人組帳」の写し百姓源治郎の欄に「高 七石壱斗二合」「百姓源治郎 年67才、同人倅久次郎40才、同人娵みよ37才、同人孫音次郎 9才、同人孫粂蔵7才、同断勝五郎5才」と書かれている。宮川の姓は記載されていない。 1840年(天保10年)、6歳のときに母を失う。1848年(弘化5年)15歳で試衛館道場の近藤周助に入門する。翌年の1849年(弘化6年)、天然理心流目録を得る。近藤周助の養子となり[1]、島崎勝太と改名する[2][3][4]。この時点では近藤はまだ目録の腕前であり、近藤姓を継ぐレベルではなかったため、師匠の周介の実家の姓の島崎としたとされる[5]。1857年(安政4年)頃、近藤勇に改名する。1860年3月29日、27歳で松井つねと結婚する。1861年、天然理心流4代目を襲名した。1862年、長女タマが誕生する。
浪士隊結成[編集]
1863年2月4日、近藤は幕府の浪士募集に応募し、試衛館門人とともに小石川伝通院に参加する。浪士は250名集まった。参加した試衛館門人は近藤勇を筆頭として、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬介、永倉新八、原田佐之助、藤堂平助の計8名であった[6]。近藤は道中先番宿割の役目についた。実務能力が見込まれたのであろう。
京都時代[編集]
1863年2月8日、中山道経由で江戸をたち、2月23日に京都に着く。屯所は鄕士の八木源之丞方であった。3月13日の集会で清河八郎らの一派は江戸に帰ることになったが、近藤らは会津藩の松平容保藩主宛に京都残留の嘆願書を提出した。3月12日に認められて会津藩 のお預かりとなった。松平容保より京都市中の治安維持が命じられる。同年8月18日、御所内の政変に壬生浪士隊52名が出動し、貢献を認められて「新選組」の隊名を会津藩京都守護職松平容保より拝領した。併せて京都市中取り締まりを命じられる。1863年9月18日、芹沢鴨を暗殺する。 1864年6月5日、池田屋事件で長州藩士を襲撃する。7月19日禁門の変で出動する。8月15日、老中から禁門の変の賞状が新選組に下される。2月22日、将軍家茂入京する。家茂に同行していた松本順は新選組屯所を訪問し、衛生状態の助言をする。1865年2月23日、山南敬介切腹する。3月10日、屯所を西本願寺に移転する。1867年6月10日、新選組総員は江戸幕府召し抱えとなり、晴れて幕臣(武士)になる。1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いで敗戦し、江戸に戻る。
転戦[編集]
1868年3月1日、近藤等は甲陽鎮撫隊を結成し甲府に向かう。3月6日、勝沼の戦いで敗れる。4月3日、大久保大和の変名で下総・流山で兵を集めていたところ長岡屋本陣が包囲され、東山道軍(新政府軍)に投降する。4月25日、板橋の刑場で近藤勇は斬首される。享年35歳。
埋葬等[編集]
近藤の首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬された。明治9年に新選組二番隊長の永倉新八が発起人となり、松本順の協力を得て、板橋駅東口前の寿徳寺境外に墓を建立した[7]。
近藤勇の写真[編集]
今も残る近藤勇の写真は、慶応4年に、近藤自身が佐藤彦五郎を訪問したときに持参したものと伝わる[8]。