山南敬助
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山南敬助(やまなみけいすけ、1833年(天保7年)-1865年2月23日)は江戸時代の新選組の副長(のち総長)である。
概要[編集]
元仙台藩士であるが、前半生は不明である。江戸に出て千葉道場で北辰一刀流の免許皆伝を得る[1]。近藤勇が運営する試衛館の食客となる。 1861年の天然理心流の四代目披露の野試合に選ばれて試技をした。 1863年の浪士隊の上洛途中で村上俊五郎ともめごとを起こし、抜刀寸前で山岡鉄舟が止めに入った[2]。刀を抜けば、村上俊五郎は北辰一刀流の達人の山南敬助に切られていたであろう。 1863年の浪士隊第一次編成で土方歳三とともに副長となる。 1865年2月21日、山南敬助は「江戸に行く」との手紙を残し、新選組を脱走したが、大津宿で沖田総司に呼び戻される。永倉新八から再度の脱走を勧められたが応じなかった。脱走は副長 土方歳三との対立や山南敬助の勤王思想から近藤の佐幕思想への反発、西本願寺への屯所移転問題などが原因と言われる。 1865年(元治2年)2月23日、局中法度「脱走は切腹に処す」(新選組の規律)違反の罪で切腹を命じられる。即日、壬生屯所(前川邸)で切腹する。 旧前川邸の八畳間は「山南敬助切腹の間」として今も残る[3]。