沖田総司

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沖田総司
おきた そうじ
性別 男性
時代 江戸時代
生年月日 1842年または1844年の夏
生誕地 江戸
没年月日 1868年7月19日
死没地 江戸
死因 病死(結核
墓所 専称寺(東京都港区)
肩書 新選組一番隊組長
登場作品 新選組隊士列伝など
種族 人間
所属 新選組
武器 刀剣天然理心流
特技 三段突き
名ゼリフ 刀で斬るな!体で斬れ!
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沖田総司(おきたそうじ、1842年(天保13年)-1868年(慶応4年)5月30日)は幕末の新選組の隊士である。

経歴[編集]

陸奥国白河藩足軽小頭・沖田勝治郎の長男として江戸(白河藩下屋敷)で生まれる。母の名は不明である。沖田家は22俵2人扶持であった。数え4歳の1845年に父が死去し、長姉の沖田みつが日野の農民の林林太郎を婿に取って家を相続した。林林太郎は1859年まで白川藩に在籍していた。1850年9歳で試衛館で剣道道場を開いていた近藤周介に内弟子として預けられた。試衛館で新選組の中核メンバーの近藤勇や土方歳三と知り合う。1853年頃、数え12歳のとき、白川藩阿部指南番と剣を戦わせて勝ったという[1]。剣技は「三段突き」が得意であった。三つの技が一つに見えたという。 1858年(安政5年)、17歳のとき日野の八坂神社[2]に奉納された欅の献額に「沖田惣次郎藤原春政」の名がある。八坂神社天然理心流奉納額は日野新選組まつりと八坂神社例大祭の年2回のみ公開される[3]

新選組[編集]

1863年(文久3年)の浪士組結成に参加して上洛した。新選組結成後は、沖田は一番隊組長となる。1863年9月18日、沖田総司は土方歳三山南敬助らと泥酔した芹沢鴨を襲う。沖田は言葉もかけずに芹沢に斬りつけた。芹沢鴨は即座に応戦し、脇差しを抜いて沖田の鼻下に軽傷を負わせたが、土方歳三の二の太刀を受けられず、切り倒された[4]1864年(文久4年)の池田屋事件で新選組が尊王攘夷派浪士を襲撃した際、沖田は近藤勇永倉新八藤堂平助のわずか4名で切り込みを行った。沖田総司は1名を切り倒した後の戦闘中に吐血し、戦線を離脱したとされる。永倉新八は「大奮闘の最中に持病の肺患が再発し打ち倒れた」と書く[5]。後から到着した土方隊により運び出された。当時は肺結核は不治の病であった。

甲陽鎮撫隊[編集]

近藤が引き入る甲陽鎮撫隊に参加し、日野宿まで来たとき1868年3月2日旧知の佐藤彦五郎を訪問し「池田屋ではかなり疲れましたが、まだまだこの通りです」と四股を踏んだという[6]。しかし、その後は体調不良で甲府への進軍や、甲州勝沼の戦いには参加できず、江戸に戻った。

埋葬等[編集]

江戸に戻った後は、千駄ヶ谷の植木職人・平五郎のもとで療養した。8畳ほどの離れだったという。家の周囲は畑や田だった。沖田は療養中「先生はどうされたのだろう。おたよりはきませんか」と気にかけていたという[7]。 近藤勇の死去から2ヶ月後に沖田総司も亡くなる。享年27歳。 沖田総司の墓は、東京都港区元麻布3-1-37の専称寺(大向山 三光院 専称寺、浄土宗)にある[8]。戒名は「賢光院仁誉明道居士」、右側面に幼名で「沖田宗治郎」と書かれる。年1回の「沖田総司忌」の日にのみ公開されるが、それ以外では現地参拝はできない。

沖田総司の恋[編集]

京都で病気治療に通っていた医者の娘に恋をしたが、近藤勇が結婚に反対して、沖田に娘と手を切らせた。沖田はときどき娘のことを思い出して涙を流していたという。娘は近藤が商家に嫁がせる段取りをしたとされる。

人物評[編集]

沖田総司は多数の人を斬ったといわれるが、記録によれば、山南敬助、芹沢鴨、池田屋など基本的に近藤に指示されて斬るだけであり、意味も無くむやみに人を斬りまくった訳ではない。一面で気の優しさもみられる。たとえば、芹沢鴨事件では、八木家の勇之助少年が右足に深い切り傷を負ったとき、「勇坊まで怪我したそうですね」と申し訳ない様子で、八木家の主人源之丞に語ったとされる[7]

参考文献・注[編集]

  1. 山村竜也(2003)「沖田総司」『新選組銘々伝』新人物往来社
  2. 八坂神社神社庁
  3. 第27回ひの新選組まつり、八坂神社での催し日野市観光協会
  4. 西村兼文(1889)「壬生浪士始末記」『歴史と旅』」1990年3月、秋田書店
  5. 永倉新八(2017)『新選組顛末記』KADOKAWA
  6. 佐藤あきら(1972)『聞きがき新選組』KADOKAWA(新人物往来社)
  7. a b 子母沢寛(1929)『新選組遺聞』万里閣書房
  8. 専称寺