永倉新八

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
永倉新八
ながくら しんぱち
性別 男性
時代 江戸時代
生年月日 1839年
生誕地 江戸
没年月日 1868年7月19日
死没地 江戸
死因 病死(骨膜炎
墓所 専称寺(東京都港区)
肩書 新選組二番隊組長
登場作品 新選組隊士列伝など
種族 人間
所属 新選組
武器 刀剣神道無念流
テンプレートを表示

永倉新八(ながくらしんぱち、1839年(天保10年)4月11日-1915年(大正4年)1月15日)は幕末の新選組の隊士である。

経歴[編集]

松前藩士・江戸定府取次役の長倉勘次の長男として江戸(松前藩中屋敷)で生まれる。母の名は利恵子である[1]。 8歳のとき。神田猿楽町[神道無念流]]の岡田十松道場で剣道修行をする。15歳で切紙、18歳で本目録を受ける。本所亀沢町の神道無念流百合元昇三の道場に住み込み修行をする。姓を永倉と改める。天然理心流道場「試衛館」に通い、客分となる。道場主の近藤勇、塾頭沖田総司土方歳三山南敬助原田佐之助藤堂平助斎藤一らと交流する[1]

新選組[編集]

1863年(文久3年)の浪士組結成に参加して上洛した。同年4月16日、会津藩主松平容保に拝謁する。6月3日、芹沢鴨らは大阪相撲力士と乱闘事件を起こすが、永倉も加わっていた。元治元年6月5日の池田屋事件では近藤と永倉の4名が浪士20名と乱闘になった。永倉は台所から表口を見張り、多数の敵に囲まれた。そのうち土方隊の井上源三郎が10名を率い、到着した。2時間ほどの戦闘であった。永倉は江戸幕府より報奨金10両を得た。 その後、近藤のわがままが激しくなり、新八は原田、斉藤、島田、葛山武八郎らと相談し、会津藩に近藤の非行五箇条をしたためる建白書を提出した。慶応元年、永倉は二番組隊長となる。慶応3年、永倉は京都島原の角屋の芸妓であった小常を落籍し、娘のお磯を産んだ。12月11日、小常は病死する[1]

甲陽鎮撫隊[編集]

江戸に戻り上野寛永寺で徳川慶喜の護衛を行う。その間、深川州崎の品川楼で遊興するが、そこで三人連れの武士とすれ違い、突き当たったところから。斬り合いになり1人を切り倒す。近藤が率いる甲陽鎮撫隊に参加したが、2時間あまりで敗走する。江戸へ戻った後は近藤らと決別して、永倉は北関東から東北に戊辰戦争を戦う。会津藩の敗戦後、東京浅草三間町で町人に変装して潜伏した。

明治維新後[編集]

1869年(明治2年)2月、松前藩に帰順する。松前藩家老下国東七郎の計らいで50石で帰参できた[2]。下国の勧めで松前藩医杉村介庵の次女杉村よね<[3]>と結婚して養子となり、杉村多内治備と名乗る。明治6年9月に杉村家の家督相続をする。 東京では牛込に剣術道場「文武館」を開いた。娘のお磯と再会した。小常の姉に引き取られ、岡田磯子となり、「尾上小亀」を名乗る女優となっていた[1]。1899年(明治32年)、小樽に転居する。東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の剣道部を指導する。

埋葬等[編集]

虫歯をこじらせ骨膜炎から敗血症を引き起こして1915年(大正4年)1月5日病死した。享年77歳。墓は3個所にある。第一は小樽市共同墓地の杉村家墓所、第二は東京寿徳寺境外墓地の「新選組永倉新八墓」で裏面に新八の略歴を記載する。第三は札幌市清田区の「杉村家墓」である。裏面に墓誌がある。

人物評[編集]

参考文献・注[編集]

  1. a b c d 結城ちはや(2003)「永倉新八」『新選組銘々伝』新人物往来社
  2. Wikipediaは150石とする。
  3. Wikipediaは杉村きねとする。