土方歳三

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

土方歳三(ひじかたとしぞう、1835年天保6年)5月5日-1869年9月20日)は江戸時代の新選組の副長である。

修業時代[編集]

1835年(天保6年)、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田[1])の豪農土方義諄(父)、母恵津の第六子として生まれた[2][3]。父・義諄は土方が生まれる前に没し、母恵津は土方が6才のときに病没した。11才の時、江戸・上野の呉服商「いとう松坂屋」に丁稚奉公にでるが、番頭と喧嘩してすぐに飛び出す。15才の頃、次姉のぶの夫の佐藤彦五郎の家の手伝いをしながら、天然理心流の修行を始める。土方家と佐藤彦五郎家には家伝の秘薬として「石田散薬」(痛み・うちみの薬)「虚労散薬」(呼吸器系の薬)があり、土方歳三は剣術修行をしながら、これらの薬を背負って多摩地区から信州まで行商をしていた[4]。 土方は稽古場に指導に来ていた近藤勇と知り合い、17歳の時(1852年頃)に天然理心流に正式入門した[5]。入門時期は1859年説(安政6年)[6]、『神門血判帳』の1858年説もあるが、1861年の武蔵府中での神事において、赤組の大将を守る赤組中軍の「衛士」の役割を担い、近藤勇と土方歳三とで模範演技を行っている。1年や2年でそうした腕前に達するのは無理なので、1852年の入門が妥当であろう。

新選組結成[編集]

1863年2月4日、土方は近藤勇とともに幕府の浪士募集に応募し、小石川伝通院に参加する。1863年2月8日中山道経由で江戸をたち、2月23日京都に着いた。1863年3月12日、土方を含む壬生浪士隊は会津藩お預かりになった。6月になり、芹沢鴨と近藤勇が浪士隊の局長となり、土方歳三、山南敬介新見錦が副長となる。1863年8月18日、「新選組」の隊名を会津藩京都守護職松平容保より拝領した。9月15日、副長の新見錦を切腹させるなど、芹沢派のメンバーを次々と粛正した。1863年9月18日、土方は芹沢鴨に大量の酒を飲ませ、寝入ったところに「沖田総司山南敬介原田佐之助らを招き入れ、芹沢鴨を暗殺した。新選組は近藤・土方体制が確立した。==落日== 鳥羽・伏見の戦いで新選組隊士150名の内3分の1が戦死して敗れた。その後、土方は近藤とともに江戸に戻る。土方は近藤等とともに甲陽鎮撫隊を結成し甲府に向かったが、3月6日勝沼の戦いで敗れた。下総流山に転戦した。宇都宮・会津方面に転戦し、仙台で榎本武揚が率いる幕府艦隊と合流した。榎本武揚大鳥圭介とらとともに北海道に入り、1868年12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により榎本武揚は総裁となって五稜郭を根城に箱館政権を作る。大鳥圭介は陸軍奉行、土方歳三は陸軍奉行並、永井玄蕃が函館奉行となる。

土方の最期[編集]

新政府軍の箱館総攻撃に際し、1869年(明治2年)5月11日、函館市中を制圧した新政府軍に対し、孤立した弁天砲台の隊員を救う為、土方歳三は旧幕府伝習隊の50名を選抜して出陣した。一本木関門付近で新政府軍の放った銃弾が馬上の土方歳三の腹に命中し、土方歳三は落馬して亡くなった[7][8]。供養碑は函館市内の称名寺に建てられた[9]。墓は東京都日野市の石田寺にある[10]

参考文献・注[編集]

  1. 現在でも、周辺は土方姓が多い。
  2. 壬生浪友の会(2007)『新選組468隊士大名鑑』小池書院
  3. 『両雄士伝』は第四子とする。
  4. 石田散薬多摩薬剤師協会
  5. 『両雄士伝』に「(歳)十七、邦武の門に入り、未だ幾ならずして技大いに進む」と書かれる。
  6. Wikipedia日本語版の説である
  7. 『両窓紀聞』
  8. 土方歳三最期の地碑函館市
  9. 称名寺の由来歴史称名寺
  10. 新選組副長 土方歳三墓所石田寺