近藤周助

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近藤周助(こんどうしゅうすけ、1792年(寛政4年)-1867年11月23日)は幕末の新選組近藤勇の養父である。

修業時代[編集]

1792年寛政4年)、武州多摩郡小山村三ツ目(現・町田市小山町)の名主島崎休右衛門の三男として生まれる。幼名を関五郎という。のち周助と改名し、隠居後は周斎と号した。名は邦武。 20歳の頃、戸吹村の天然理心流宗家二代近藤三助に学んだ。1819年、三助は45歳の時、相原村で客死した。三助の死後12年目の1830年(天保元年)2月11日、近藤姓を継いで天然理心流三代目となった。

三代目後[編集]

1839年天保10年)、江戸市谷柳町に「試衛館」道場を開設した。門人千余人と言われた[1]八王子日野府中上石原の多摩地域に多くの小道場が作られたため、周助の門弟は多摩にも多かった。 1861年文久元年)、近藤勇に跡目を譲り、1863年(文久三年)、四谷舟板横町に移り住んだ。 没年は慶応3年10月28日(1867年11月23日)、行年76歳。

実態[編集]

近藤周助邦武は一代で9人の女房を持ち、7名の妾をもち、酒を飲むと酒乱になったという[2]。多摩に行くと蛇や蛙を肴にして酒を飲んでいたという。隠居後は自宅に妻と妾3名が同居していたとされる。土方が近藤の使いで「女色が過ぎるのはお体に良くない」と伝えたが、「それァどうも」と言われたという[2]

埋葬等[編集]

近藤周介邦武の墓は、東京都港区芝公園3丁目5-4の金地院南禅寺塔頭の禅寺)にある[3]。墓の表に「周齊近藤邦武之墓」と書かれ、裏には「祠堂金二十両納之」と書かれる。

参考文献・注[編集]

  1. 新人物往来社編(1993)『近藤勇のすべて』新人物往来社
  2. a b 子母沢寛(2014)『幕末奇談』中央公論新社
  3. 金地院東京都港区