三遊亭圓楽 (5代目)
五代目三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1933年1月3日 - 2009年10月29日)は、日本の落語家。落語円楽党党首、日本テレビ系『笑点』四代目司会者、円楽一門会総帥・最高顧問などを歴任した。本名吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)
来歴[編集]
東京府東京市浅草区(現・東京都台東区)に生まれる。実家は浄土宗の寺院である易行院(通称・助六寺、2025年現在の所在地は足立区東伊興)で、自身の墓所もそこにある。
東京大空襲で焼け出され、父親の薦めで農家になろうとするも、当時の東京で農業について学べる学校は山手線以西にしかなく、東武線沿線の埼玉県立杉戸農業学校に入学して卒業。
鈴本演芸場で聞いた落語に感銘を受け、1955年(昭和30年)に六代目三遊亭圓生に弟子入りし、三遊亭全生の高座名を名乗る。弟子入りの時に師匠へ「30歳までに真打になれなかったら廃業する」と宣言し、1958年(昭和33年)に二つ目昇進。30歳を迎えるおよそ3ヶ月前の1962年(昭和37年)10月に真打昇進を果たし、三遊亭圓楽の五代目を襲名した。なお圓楽の名跡は八代目林家正蔵がかつて名乗っていた名跡である。
1965年(昭和40年)3月、笑点の前身となる『金曜夜席』の放送がスタートし、その出演者に抜擢される。最初の3回は司会者を務めたが早々に司会の座を立川談志に譲って回答者となった。翌年放送開始の笑点にも引き続き回答者として出演し、1968年(昭和43年)に立川談志との対立で一時降板するも2年後に復帰。しかし師匠の圓生から「こんな安っぽい芸人になるのか」と窘められて1977年(昭和52年)3月末で再度番組を降板。1982年(昭和57年)12月に笑点の司会者だった三波伸介が急逝したことに伴い、年明けより司会者として復帰。以後脳梗塞を患って番組を休養する2005年(平成17年)10月まで司会者を務めた。
2009年(平成21年)10月29日、転移性肺癌により76歳で死去。弟子の楽太郎が六代目園楽を襲名する際には2代の園楽の揃い踏みを行う予定だったが、それは叶わぬ夢となってしまった。
笑点でのキャラクター[編集]
面長な容姿から馬呼ばわり(馬は黙ってろ)、江東区東陽に億単位の借金までして建てた寄席若竹を短期間で潰してしまったことによる借金ネタ、長い小言、本番中の居眠り、「園楽さんに逆らえる人間は落語界に居ない」などとイジられた。また回答者から罵倒されても怒るでもなく大笑いした上で座布団はキッチリと没収していくというスタイルだった。
林家こん平の代役で大喜利メンバー入りしたたい平のことを最後まで正しく覚えておらず、大喜利で指すことが少なかった。そのためたい平は新人イジメを受けているのではと心配された。ただこれは脳梗塞の前兆だったとも言われる。
その他[編集]
- 実家の易行院に建てた墓は生前に自身で建てた物。寺の生まれであることもあり、墓石の素材などにこだわったという。その隣には日本航空ニューデリー墜落事故で23歳で亡くなった妹の供養観音がある。
- 1985年(昭和60年)8月12日、徳島への移動のため当時の笑点メンバー一行で羽田空港を訪れるが予約していた航空便が遅延したため、定刻通りの運行が予定されていた日本航空123便に振り替えようとした。しかしこん平の「決まった便でゆったり行こうよ」の一言で123便に振り替えなかったことで事故を回避した。
- 極めて短気な性分で、一回り年上の八代目正蔵に向かって突っかかったこともある。ただ八代目正蔵もまた短気な性分であり、自分以上に短気な圓楽相手に稽古をつけるなど気にかけていた。
- 趣味は麻雀。その腕前はプロにも迫る雀鬼で、暇さえあれば弟子を連れて行きつけの雀荘へと通っていた。下駄を履いて雀荘を訪れていたこともあり、常連達は玄関先から下駄の音が響いてくると戦慄した。
一門弟子[編集]
- 三遊亭鳳楽 - 総領弟子
- 三遊亭好楽 - 8代目林家正蔵門下から移籍
- 三遊亭円楽 (7代目) - 末弟子(27番弟子)
関連項目[編集]
- そいつは何者だね - 司会者時代の傑作問題